<対談>
猪子寿之(チームラボ代表)× 隈研吾(建築家)
『チームラボ 無限の連続の中の存在』(金木犀舎刊)に掲載している、猪子寿之さんと隈研吾さんの対談を特別に全文公開します。
全国の書店、ネット書店で好評販売中
チームラボ 無限の連続の中の存在
企画:姫路市立美術館
発行:金木犀舎
ISBN 978-4-909095-55-8 C0070
A5判・並製・184ページ
2024年4月19日発売
定価2,970円(本体価格2,700円+税)
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アマゾン 紀伊国屋書店 HMV&BOOKS Honya Club
【電子版】
2024年10月5日より順次発売予定
電子書籍定価2,673円(本体価格2,430円+税)
※電子書籍版はストアにより価格が異なる場合があります。
▶︎猪子寿之 INOKO Toshiyuki チームラボ代表。1977年生まれ。2001年東京大学計数工学科卒業時にチームラボ設立。チームラボは、アートコレクティブであり、集団的創造によって、アート、サイエンス、テクノロジー、デザイン、そして自然界の交差点を模索している、国際的な学際的集団。アーティスト、プログラマ、エンジニア、CGアニメーター、数学者、建築家など、様々な分野のスペシャリストから構成されている。 |
▶︎隈 研吾 KUMA Kengo 1954年生まれ。東京大学大学院建築学専攻修了。東京大学教授を経て、東京大学特別教授・名誉教授。1964年東京オリンピック時に見た丹下健三の代々木屋内競技場に衝撃を受け、幼少期より建築家を目指す。大学では、原広司、内田祥哉に師事し、大学院時代に、アフリカのサハラ砂漠を横断し、集落の調査を行い、集落の美と力にめざめる。コロンビア大学客員研究員を経て、1990年、隈研吾建築都市設計事務所を設立。日本建築学会賞、フィンランドより国際木の建築賞、イタリアより国際石の建築賞、他、国内外で様々な賞を受けている。その土地の環境、文化に溶け込む建築を目指し、ヒューマンスケールのやさしく、 やわらかなデザインを提案している。また、コンクリートや鉄に代わる新しい素材の探求を通じて、工業化社会の後の建築のあり方を追求している。現在、40を超える国々でプロジェクトが進行中。 |
プロフィールは書籍刊行時のものです。
猪子
隈さん、今日はチームラボのスタジオまでお越しいただき光栄です。以前は「Pace Gallery(ペース・ギャラリー)」での展示も観ていただいて、ありがとうございました。
僕、少し前にデンマークに行ったんですよ。そうしたら、コペンハーゲンの空港にでっかく隈さんの作品の写真が飾られていて。「KENGO KUMA」って大きく表示されていました。
隈
本当? 知らなかったな。ハンス・クリスチャン・アンデルセン美術館とデンマーク・ウォーターカルチャーセンター、どっちの写真でした?
猪子
アンデルセン美術館です。たぶんデンマーク政府が、国を代表する名所をいくつか選んで飾っているのだと思うんですが。ほんとに、どこに行っても隈さんの作品がありますよね。
隈
いやいや、チームラボこそ。アート関係の人はみんな意識しているよね。
猪子
今日はせっかくなので、作品を実際に見ていただきながら順を追って、僕たちがやろうとしてきたことをお伝えしてもいいですか。
チームラボは2001年の頭に始めたんです。最初はアートで食えるとは思っていなかったので、テクノロジーを企業に提供しながら、アートをつくっていました。それは今も続いています。
超主観空間の変容と進化
猪子
「世界は境界がなくて連続している」にもかかわらず、認知上分断してしまうこと、特に、レンズで見ると、自分の身体がある世界と見ている世界が分断されることに以前から興味がありました。レンズは、時間を持つ空間の平面化の論理的な方法論の一つだと考え、レンズとは違った、時間を持つ空間の平面化の論理を模索し始めました。
レンズを通して映像を撮ると、表示される面が境界になって、境界の向こうにレンズで切り取った空間が出現しますよね。そして、視点が固定されて無自覚に身体を失ってしまう。本来、人間の視野ってもっと広く、視点とフォーカスは非常に動き回るんですけど、レンズで撮った世界はフォーカスが1点で動かないため、視野が狭くなり、意志を失います。例えばテレビの前にソファがあるのは、もしくは映画館に椅子があるのは、レンズで撮った映像だからです。そういったレンズ越しの世界とは違って、身体と切り取った世界が曖昧に連続し、視点が自由に移動できるため歩きながら見ることができ、フォーカスが無限にあることによって、視野が広がり意志を失わない空間の平面化の論理を模索しはじめたのが、チームラボのスタートなんです。その平面化の論理を構築して、平面化したものを僕たちは「超主観空間」と呼んでいます。論理を構築することは重要です。それによって、平面化する空間は、時間を持ち、動的な変化が可能になり、人々の存在によって動的に変化する絵画を描くことができるからです。
わかりやすい作品があるので見ていただけますか。これは《生命は生命の力で生きている II 》という作品で、コンピュータ上で3次元空間に立体物として作っています。レンズで、または遠近法で平面化した場合は、ディスプレイが境界面となって、ディスプレイの向こう側に空間と立体物が出現するんですけど、これは立体物の存在がディスプレイの手前なのか奥なのかわからない。境界面があいまいでこちら側に連続しているっていうか。
隈
うん、わかるわかる。まさにそうだよね。
猪子
実はこの作品は最近のものなんです。同じことをめざして制作した初期の作品よりも、境界面があいまいであることがわかりやすくなった理由は明白で、このディスプレイは8Kなんです。8Kまでいくとドットが小さくて、20年前はドットが大きくて物質的にドットが見えてしまうので、どうしてもその物質が勝っちゃってたんです。理論上は境界面がないはずなのに実際は境界面あるよなぁと思いながら、ずっと続けていました。このシリーズがスタートです。
隈
確かに、20年前だとそうだよね(笑)
それは建築の世界でも言えることで、何が建築における8K以降か、みたいなことを考えると、コンクリートと鉄の時代には超えていけなかった。ドットが荒いディスプレイと一緒で、没入できないんだよね。それに対してもっと違う、柔らかい素材みたいなものとか、光そのものをコントロールするみたいなことをやると建築でも8Kを超えていけるんじゃないかという模索を、僕もずっとしてきたんだ。
猪子
このシリーズではディスプレイの物質的な壁があったので、制作を続けながら、平面化をせずに、物質的じゃないもので動的な立体物をつくることを始めました。Light Sculptureのシリーズ(2013-)です。
これは《The Infinite Crystal Universe》という作品で、光のドットで動的な3次元の立体物をつくろうと思って始めたものです。人々の存在によって変化する立体の中に、身体ごと入り、身体と連続的で一体となるものをつくりたいと考えました。
隈
これはどこでやったの?
猪子
これは豊洲にある「チームラボプラネッツ」など巨大な空間が使える常設展示の場所ですね。「チームラボプラネッツ」にはこういった大きな作品に身体ごと没入し、身体によって作品は変化し、身体と作品が一体となるような作品を集めているんです。もうひとつ、豊洲で展示している作品を見てください。
これは《Floating Flower Garden:花と我と同根、庭と我と一体》という作品で、本物のランの花で埋め尽くされているんですけど、自分がいるところだけ花の密度が下がって入り込めるんです。
隈
おお、生きた花なんだね。
猪子
はい。これらのランはもともと土がない木の上などで空中に根をおろし生きるので、空中に生えるんです。空間がぎっしりランで埋まっていて、絶対入れない密度なんですけど、人のいるところだけランが上に上がり、通り過ぎた場所はランが下がって埋まっていくので、ランが生えてできた立体の中に、身体ごと没入して一体となります。
これらの作品は、2009年のteamLabBallからはじめるのですが、「作品の構成要素が空間的、時間的に離れていても、つまり、自由移動したり、動的だったとしても、光の連続性など全体の連続性や振る舞いなど、秩序が形成された時、一つの存在として認識される。そして、構成要素の物理的位置は自由になり、作品の存在の境界面は、身体と曖昧になっていく」という考えです。そのような考えで、動的な立体物、境界面が曖昧な彫刻を作っていきました。また、水や霧、泡など、そもそも物体の構成要素が自由移動するものを使って作品をつくり始めました。それらは、構成要素が自由移動するので、身体と境界面が曖昧なのです。そのうち、物理世界には存在しないが鑑賞者の身体と認識が形づくる、「認識上の彫刻」と我々が呼ぶ、鑑賞者の認識世界に出現する立体物に模索が拡張されていきました。物質が存在しなければ、そもそも身体との境界面とかがないわけですから。
隈
なるほど。それはどういう作品になってるの?
猪子
違う部屋へ移動しますね。暗いので気をつけてください。
これはいま、兵庫県姫路市にあるで開催している「チームラボ 圓教寺 認知上の存在」で展示している《我々の中にある巨大火花》です。
中心から放射状の非常に細くて赤い線による球体があると思うんですが、一度認識すると、球体はだんだん大きくなっていき、直径2.5メートルの球体が空間にあるように見えないですか。
隈
うん、見える。
猪子
光が線として固まるわけないんです。だから、こんなものは存在しない。存在したら、光の原理原則が崩壊します。実際は、この線の集合の球体は、目の中にできている。物理世界には実在していない。だから手をつっこんでも何もない。
隈
本当だね。何もない。それに、近くで見ると線がうごめいているようにも見えるね。
猪子
はい。それは人間の目が、どうしても動くからなんです。だから見え方にも個人差がちょっとあって、メガネの人は裸眼の人とは違うように見えてしまいます。
これは写真で撮ろうとしても写らない、認知世界にだけ存在する彫刻です。認知上存在すれば、それはもう人間にとっては……
隈
実在だよね。
環境がつくる存在、環境現象
猪子
チームラボは、「全ては連続の中に存在する。そして、連続していることそのものが美しい。」と考えています。そして、生命という存在は、まさに、連続する流れの中に存在するもの。構造です。
隈
えっ、散逸構造? プリゴジンの?
猪子
はい。20世紀後半にノーベル賞を受賞した物理学者、イリヤ・プリゴジンの理論です。
石ころっていうのはそれ自体が安定した構造を持っているから、密閉された箱の中に入れても石ころのままです。でも、生命って、例えば僕が箱の中に密閉されたら2カ月後にはどろどろになってるはずで。僕が僕でいるためには、食事をして排泄をして、運動エネルギーや熱エネルギーを放出して、物質とエネルギーの流れがなくちゃいけない。連続するエネルギーと物質の流れが構造を定常させているんです。海にできる渦と同じです。渦は渦の外部から内部へ、そして内部から外部へと流れ続ける水によってつくられ、渦という存在が定常している。つまり、外部環境が渦や生命の存在を定常させているわけです。
隈
散逸構造って僕が学生だった頃に出てきた理論で、いろいろなエネルギー、もしくは光なんかが絶えず出入りしているダイナミックな状態のなかでも平衡状態が成立しているという考え方。静的な平衡状態と対比して、動的平衡という言葉で散逸構造を解釈する人もいるよね。
当時からもちろん画期的な理論で、それまでの秩序や構造に関する考え方を変えていくようなヒントになるんじゃないかという直感があって、僕もすごく興味があった。建築はそもそも物質の構造式ともいえるわけで、古代ギリシャの数学が発明した構造がヨーロッパのすべての建築のベースになっている。そんな古い時代の構造概念をつきやぶりたくて、プリゴジンにひかれたんだよね。そのときの70〜80年代のテクノロジーでは、どうやったら散逸構造の実際の物質化にたどり着けるかなんていうことは全然想像もできなかった。現代のテクノロジーで、猪子さんみたいなクリエイティブな人が8Kの世界を手に入れたら、散逸構造が実際につくれることがわかってきたということなんだよね。僕が学生時代にもやもやと考えていたことを、40年後にここで猪子さんから聞けるということがパラレルな感じがするな。
そう考えると、建築でダイナミックな構造を作ろうとした場合も同じで、現代の材料やコンピュータによる計算を駆使し、ある種の建築の解像度のようなものを上げていくと、散逸構造を実空間で実現することができるのかもしれない。僕がやろうとしていることは、それに近いかもしれない。
猪子
人間って歴史上ずっと、石ころと同じように自ら安定した構造を持つものばっかりつくり続けてきたと思うんです。だから、環境が存在を生み、環境が存在の構造を維持するようなものをつくっているんです。僕らはこの考えを「環境現象」と呼んでいます。これまで存在の構造を担っていた物質から解放され、日常的にありふれた空気や水、光なども、環境によって特異な現象となり、その現象が存在になると考えています。そして、その存在の境界は曖昧で連続的です。人が作品を壊したとしても、環境が維持される限り、作品の存在が維持されます。逆に、環境が維持されない時、作品は、消えてなくなってしまいます。
隈
そういえば、Paceでやってた太陽みたいな作品も環境がつくったひとつの現象を作品だと呼んでるわけだよね。あれはどういう原理なの?
猪子
光の塊みたいに見えるやつですよね。特殊な環境があの存在をつくっています。そして、認知世界に出現した認知上の存在です。だから「環境現象」でもあり「認識上の彫刻」でもあります。
周辺に対して連続的で曖昧な存在の輪郭
猪子
次はこの動画を見ていただけますか。《風の中の散逸する鳥の彫刻群》です。
隈
これ、ゴッホみたいだよね。
猪子
鳥が飛ぶと、近くの空気が動くのですが、それは、鳥の運動エネルギーが周辺に散らかっていくことを意味します。この作品は、近くを飛んでいる鳥から散らかっていくエネルギーを描いています。
隈
鳥の動きでつくられてるの? リアルタイムに?
猪子
そうです、この場所に鳥が飛んでいて、リアルタイムで動きをとっているんです。そのために、この周りに一生懸命木を植えて。虫がいっぱい集まると鳥が来てくれるので、虫が集まる木を選んで植えて(笑)。
ここは大阪の長居植物園という大きな植物園で、閉館後はチームラボの夜の野外ミュージアムになります。
隈
本当だ、動画をよく見ると鳥が飛んでいるのが見えるね。
猪子
これと同じシリーズの作品を今、姫路市立美術館で展示させてもらっています。こっちは人間が歩く動きをCG上でシミュレーションしているんですけど。《Dissipative Figures ‒ Human,Light in Dark》という作品です。
隈
Paceにもあったね。
猪子
そうでした、Paceで観ていただいていましたね。これ、人間が歩いているように認識できると思うんですけど、実際は空気の動きだけを描いていて、人間自体は描いていないんです。生命って物質上は輪郭がありますけど、存在の輪郭って本来はあいまいなはずなので、それを空気の動きで表現しています。だから、さきほどの鳥の作品と一緒ですね。
環境現象は私有できない
猪子
この《質量のない雲、彫刻と生命の間》という作品はいま、マイアミ、北京で展示しているものです。ただの泡なんですけど、特殊な環境をつくることで泡の海から大きな白い塊が生まれはじめて、浮き上がっていきます。この泡の塊は天井まで上がりきらずに、空間の中ほどを浮遊しながら時に千切れて小さくなったり、他の泡とくっついて大きくなったりしながら存在します。
隈
これは触ることができる現象なの?
猪子
はい、これは泡でできているので、身体ごと塊の中に入っていくこともできるし、手で触ると壊れます。面白いのは、この塊は壊れても自己修復していくんです。みるみるうちに傷が治り、形と状態が維持されます。
隈
壊しても直るんだ。
猪子
だけどこれは環境が維持されているからこそ出現するものなので、環境が維持されなくなれば、散り散りの泡に戻ってしまいます。それに実は、これも生命と一緒でやっぱり寿命があって、現状、環境が維持された状態でも30分くらいしかもたないんです。
隈
えっ、そうなの? 30分経つとどうするの?
猪子
壊れてなくなるのを待って、新しい泡の海をつくることで新たな塊が生まれます。似てますよね、生命と。永遠じゃないんです。
隈
なるほど、面白い。すぐになくなる作品ってすごくいいね。
アートって本来はもっと自由に世界を見て、世界と人間との関係について介入すべきものなのに、実際はすごく限定された世界の見方しかしていないことがずっと気になってた。今までの価値観っていうのは、結局、作品っていう“ブツ”を売買するみたいなところがあって。“ブツ”として取引できないもの、私有できないものはアートの枠組みから外れてしまってたんだよね。それは建築も同じで、売買可能な郊外住宅をデザインするという経済モデルで、建築家は飯をくってた。モダニズムの巨匠といわれたコルビュジエやミースが、この「商品としての建築」というモデルを発明したともいえる。だからこそ永劫性っていうモデルに、アートもしばられてたわけです。20世紀の資本主義の「商品」というところが必須条件だった。なにしろ「商品」の価値の基本は、永続性だから。
チームラボの作品みたいに無限に複製できて、どこにでも存在し得るみたいな世界のものっていうのは、今までのアートの世界にはハマらなくて、私有できないのにどうするのって思う人がまだたくさんいると思う。猪子さんはその大原則に挑戦している気がして、すごく面白いよね。
猪子
チームラボが切り開いたことの一つで、“ブツ”の取引とは無関係な存在として、自分たちで作品をつくって、場もつくって、その空間を体験してもらう。そうすると、売るとか、所有とかがない世界に行けた。それが相当よかったです。他人に所有権がうつらないっていうのは、創作がとても自由になる。
隈
そうなんだよね。所有権を渡すって大変なんだよ。そういうことを考えだすとめんどくさいから、自分たちで楽しんでいればいいというところにもうチームラボは来ていて、その楽しんだものの結果をマネタイズしていく。そのある種のお気楽さはすごくいいよね。
猪子
突き詰めてしまえば、明日作品が壊れてもいいっていうか。
隈
その感覚が大事で、さっきの泡が壊れるというのがやっぱり一番新鮮だった。猪子的感性が象徴されてた。これまでのアートの世界だったら、もちろん建築の世界も同じだけど、買ったはずのものが明日壊れてなくなっていたら大問題だという、20世紀の資本主義流の考え方を超えていかないと、人間の新しいライフスタイルはやってこないし、アートも建築も変われないと僕は思う。
“没入感をデザインする”という共通性
隈
今日、猪子さんからチームラボのやってきたことを体系的に聞いてすごく面白かったんだけど、まず、猪子さんのスタートは一種の映像というか、面からだった。面でしかない映像の宿命を超えるところに参入した、というのが僕には目からウロコだったね。
僕自身は、あるときから映像に興味がなくなったんだ。それは建築をやりはじめたからで、それまでは映画とか結構好きだった。建築って3次元のものだから、2次元の制限を超えていけることに気づいて、建築と比較してしまうと映像ってつまんないなと思いはじめてしまった。建築にはある種の没入感みたいなものが必ずついてくるので、没入感自身をデザインできるからね。要するに形をデザインしてるようにみえて、実は没入感をデザインしてるんだよ。
猪子
はい。よくわかります。
隈
20世紀最初の頃のモダニズムの建築は形をデザインしていて、形で世界を席捲した。結局それは映像に翻訳された形を面白くしていただけだった。没入としての建築の深さがわかってくると映像の限界、うすっぺらさがはっきり見えてくる。そこから猪子さんもスタートしていて、そうすると、実は僕と同じことをめざしているということがよくわかった。ある一つの人間の身体が「何を感じるか」というところを突き詰めてデザインしているんだよね。それを猪子さんも、僕も、少し違う形でやっている。別のテクノロジー、別のメディアを使いながら、同じところを攻めているというところで、猪子さんと僕はすごく共通点があるなと思いました。
猪子
光栄です。ほんとに。
隈
写真に写るものと写らないもの、物質的に存在するものとしないもの、みたいなところを今日わかりやすく普段は見せない舞台裏の話も説明してくれたけど、実は写真に写るか写らないかはどっちでもいいということに今日気づいて、うれしくなった。結局は人間の身体と環境との一種の会話みたいなものをデザインしているわけで、それが写真に写っても写らなくても、それは本質的なことじゃないんだよね。どっちの場合もそこで会話が起こっているわけで、それで充分なんだよね。だから本当は、そこを別物だと分析する必要はないんだよね。
従来のアートの世界ではそこを二分して考えるから、これは認知上騙しているだけだから一種のまやかしじゃないかというつまらないことを考える。まやかしか、まやかしじゃないかという変な倫理観、クソ倫理観みたいなもので分けちゃうところがつまんないよね。猪子さんがそのクソ倫理観を超えているところが、突き抜けた感じがしてよかったと思う。
建築の世界でも、「これ、単なる錯覚を作ってるだけじゃないの?」という、リアルとアンリアルを峻別しようとする人たちがいるけど、僕もそういう倫理観を超えていきたいと思って戦っているから、共通点がたくさん見つかって今日は何度も驚きました。建築では、その対立は、ルネサンスかというディベートの時にすでに始まっていて、錯覚もリアルだとするバロックが、結局豊かな空間を作れたんだよね。これからチームラボがどんなふうに進化していくのか、楽しみにしています。
2023年10月18日
チームラボのスタジオにて対談収録
本対談記事の著作権は放棄されていません。無断転載、複製を禁じます。
全国の書店、ネット書店で好評販売中
チームラボ 無限の連続の中の存在
企画:姫路市立美術館
発行:金木犀舎
ISBN 978-4-909095-55-8 C0070
A5判・並製・184ページ
2024年4月19日発売
定価2,970円(本体価格2,700円+税)
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