第14話 けいちゃん「貧しかった子ども時代」2

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.1> けいちゃんの場合

貧しかった子ども時代(前回のつづき)

 

●働かない父に代わって

父は、小学校1年までしか学校へ通っていません。
父のきょうだいは誰も学校へ行きませんでした。父の両親は、自分たちの仕事で忙しかったようで、学校はどうでもよかったみたいです。
だから、父は結婚して独立しようとしても、学がないせいでよい仕事に就けませんでした。

 

私や私のきょうだいは、母方の祖父母たちが金銭面での支援をしてくれて育ちました。
母は、そんな状況の中で子どもたちを育てていることを私に言ってくれませんでしたが、母方の祖母や親戚たちから聞かされました。
母は父の文句を私に決して言わない人でした。
しかし私は小さいときから、母が苦労しているのをわかっていました。
家は壁も穴だらけ、床は母が足で踏んで固めただけの土の床でした。
庭のフェンスは木で造られた簡素なものだったので、しばしば台風の時に倒れ、風雨が吹き込んで家の中がぐちゃぐちゃになってしまいました。

 

私は小学校3年ぐらいから、少しでしたが稼いでいました。
親戚の子どもの布おむつを洗濯したり、アイロンをかけたり、アイスを売りにいったりして働きました。
学校の費用はかかりませんでしたが、お昼ご飯などに稼いだお金を使いました。
妹は学校に行き始めると同時に、母方の叔母の家に住み込みでお手伝いに入りました。
叔母の夫はサウジアラビアに出稼ぎにいっていたので、子どもの面倒を見る人手が足りなかったからです。
妹はお手伝いが忙しく、勉強できない状態でした。
私は不憫に思い、妹の必要なものは私が買う、妹の面倒は私が見るからと、妹を叔母から返してもらいました。
その時、妹は小学校1年、私は小学校3年でした。

私は学校に行きながら、稼ぐことはなんでもしました。
近所の人に簡単な仕事をもらって、洗濯したり、水汲みしたり。
昔は家に水道がきていなかったので、どこかに汲みに行かないといけませんでした。
当時、水汲みしたら、1回1ペソ(日本円で約2円)もらっていました。
何回か分を、何人かに頼まれたら合計すると20回分くらいになりました。それを貯めて、妹に必要な物を買いました。
私が稼いでも家族を養えるほどではなかったので、親戚の助けがあって、私たちはなんとか食べていくことが
できました。

 

▶︎第15話 けいちゃん「貧しかった子ども時代」3 へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。