File.2-1 マユミさん 「まんまる」の家族

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.2>マユミさんの場合

2020年12月11日、おしゃれな布マスクをしニコニコと私の前に座った「マユミ」さん。
時間を割いてくれたことに感謝を述べると「こちらこそ、ありがとうございます」と彼女は笑顔で答えてくれた。
とてもリラックスした雰囲気で、話をするのが楽しみだというように語り始めた。

彼女はタガログ語が母語だが、インタビューは日本語で行った。日本語の会話はほとんど問題なく、語彙の中に時折英語が混じる程度でスムース。
目下のところ日本語能力検定のN3(N1からN5まである。N3は日常的な日本語を読み聞くことができるレベル)を目指して勉強中だという。
言葉の表現で難しいのは感情を表すことだと思うが、彼女が気持ちを表現する日本語の言葉は私の心をぐっとつかんで揺さぶるほどだ。
彼女の言葉をそのまま伝えたいと思い、ストーリーは概ね彼女の語り言葉で綴っている。

 

「まんまる」の家族

 

それはまるでレオナルド・ダ・ヴィンチ壁画の「最後の晩餐」のテーブルのようでしたよ。長いテーブルの両側に家族がずらっと並んで食事をしていました。
全員で12人もいるものだから、それはもう、とても賑やかで、食べ物を取り合いしながら食べていましたね。私たち家族はとても仲が良かったのです。

 

私は1971年にリサール州サン・ファン市で生まれました。リザルは、あの19世紀のフィリピンの革命家ホゼ・リザル(ホセ・リサール)から名付けられました。
そこは軍隊のキャンプのすぐ外にある街だったので、軍隊の家族が多く住んでいましたね。
マミーは私を自宅で出産しました。私は両親にとっては10番目の子どもです。両親には16人の子どもが産まれたけれど、無事に成長したのはそのうちの10人でした。
きょうだいは上から、長女ヘレン、長男ジュニア(故人)、次男アーリング、三男ウィリアム(故人)、四男ホセ(故人)、次女グロリア、三女ジョセフィーヌ、五男マヌエル、四女エリザベス、そして五女の私。
今、ジョセフィーヌ、エリザベス、私は日本に住んでいます。

 

当時、フィリピンはマルコス政権下で政治的にも社会経済的にも厳しい時代でした。年20%以上も物価が上昇し、市民の暮らしはとても苦しかったのです。
ダディは、軍隊で勤めていました。安定した職業でしたが、大家族だからいつも生活費が足りなかったです。
軍隊はそれほど給料が良くなかったため、ダディはタクシードライバーとしてアルバイトもしていたんです。
すごく家計は大変だった。マミーも家計を助けるために、近くの市場で野菜を売っていました。
とにかく10人もの子どもがいてやりくりが難しかったからです。
私が今でも思い出す家族の風景は楽しい団欒の時間です。毎日、夕食のあと、兄がギターを弾いて姉たちが歌を歌っていました。そしてダディとマミーは、いつも丸く輪になって座る子どもたちの真ん中で踊るんです。
家族みんな踊りや歌が大好きでした。どんなに忙しくても、夕食は家族そろってみんなで食べるのが当たり前でした。

 

うちのダディは他の家のお父さんと比べても、とても家族が好きでした。その証拠に、仕事が終わるとさっさと帰ってくるんですよ。
同僚にはカードゲームや飲んで帰る人も多かったのですが、ダディは決してそんなことをしませんでした。
またダディは自分からカードゲームをしようと子どもを誘うことはありませんでした。
むしろ、みんなでお話をしたり、歌ったり踊ったりするのが好きでした。
家族で一緒に外へ出かけるとき、いつもダディがまとめてくれました。みんな、一緒に行こうって、お金はないけれど、自分の子どもたちと一緒にいることが幸せのようでした。
ダディは優しい人でしたが、マミーはすごくわがままでした。ダディが、家族で出かけようというと、あなたたち行ってきなさい、私は行かない、というタイプでした。
うちのダディはすごく幸せな人で、いつも「マミー一緒に行こう、子どもたちがかわいそうだから。一緒に行こう」ってなだめるようにマミーを説得していました。
ダディは朝起きたらコーヒーを淹れて、マミーに持っていくの。マミーは朝早くから庭の世話をしているのですが、ダディが「マミー、コーヒーが冷めてしまうよ」と言っても「大丈夫。冷めたコーヒー飲んでも死なないわよ」と返すんです。これは毎朝繰り返されるシーンです。
私はマミーよりもダディ派なので、人に甘いところ、優しいところ、子どもを大切にするところはダディに似ています。

コーヒー

一方で、マミーの強さも継いでいるみたいです。
マミーは自分の弱さを人に見せない。マミーと違ってダディは、子どもにだってお願いをするタイプね。だからこそなのかもしれませんが、大人になってもダディはそばにいてくれるんです。
でも、ほかのきょうだいは、それほどじゃなかったと思うのけれど、ダディは私を特に可愛がってくれましたね。
私は一番下の子どもだから、余裕を持って見られたのかもしれないね。一番上の姉は私よりも20歳くらい上です。姉の子どもと私が同じ年くらいでした。
両親の方針で、きょうだいが喧嘩をすると連帯責任をとらされていました。そう、きょうだいみんなで怒られていた。
でもとても楽しかった。
日本で暮らしている姉とよく子ども時代の話をするのですが、懐かしく、涙が出るほど笑ってしまう話ばかりです。家族の絆ってすごいなと思います。
楽しい家族でした。それしか覚えていないのよ。もちろん喧嘩もすごいけれど。絆ってね、その中にも喧嘩はあると思っています。それぞれの性格もあるからね。
「まんまる」の家族なので、どんなことがあっても、一緒にやろうとしました。

 

マミーは主婦でしたが、ビジネスが好きでした。マミーは話し上手だったので、商売も上手でした。売れ残りは出しませんでしたよ。
私も母と同じところがあります。今商売はできないけれど、メルカリに出品するでしょ。購入希望者とのメッセージのやり取りで、なんと書いたらいいかわからないことは知り合いに電話で聞いて、なんとかして買ってもらえるように努力をします。
そういえば、マミーも値引き交渉のとき、他の商品も抱き合わせで買ってもらっていました。あれこれとお得感を持ってもらえるように工夫していましたね。
そんなところは私も似ていると思います。

 

姉のグロリアが大人になって歌の仕事をするようになり、バンドのメンバーとしてたびたび日本にいくようになりました。
9歳だった私に、ミッキーマウスのバッグやロッテのキャンディー、日本のお米をお土産に買ってきてくれました。
初めて食べた日本のお米は美味しかったわ。それから、便箋セットも。日本の便箋セットはいい匂いがして、かわいかったの。
食べ物も美味しいし、お菓子も美味しいし。なんて素敵な国だろう、と思っていました。グロリアがいつも練習していた五輪真弓のヒット曲『恋人よ』はカセットテープで何度も聞いて、私も覚えてしまいました。姉がローマ字で書いて暗記しようとしていた歌詞を私も一緒に覚えたんです。
グロリアが日本で仕事をするようになって、私たちの人生が変わりました。
前はボロボロだった家が、少しずつ綺麗になったのです。
ところどころめくれ上がってボロボロになっていた床がビニールタイルになりました。家にジプニーも買いました。私の靴もサンリオのかわいいものになりました。するとクラスで人気ものになり、持っていった手提げ袋もみんなに羨ましがられました。
そのうちダディが退職し、マミーも仕事をやめました。姉は両親に、自分が出資するからビジネスを始めていいよとも言いました。
以前がとても貧しかったから、生活の変化をよけいに感じました。食べる物もない時代があったんですよ。
あるときは、近所のパン屋さんがオープンするのでオープン記念に「パンデサル」という朝食用のパンが配られると聞き、きょうだいで交代でもらいに行ったりもしました。おかずがなくて、醤油と油をご飯に混ぜて食べたこともありましたね。

 

小学6年生になると、グロリア姉さんが必要なものをすべて用意してくれるようになりました。学費も姉が支払ってくれました。
姉に連れられて、高級なホテルに泊まったことがありました。日本からのお客さんをマニラに案内するときに、私も連れていってくれたんです。日本のお客さんも優しかったですね。
鉄板焼きのレストランに行ったとき、私がおしぼりで顔を拭いたら、姉がそれは手を拭くものだよと注意しました。日本食の食べ方も教えてくれました。
姉がいろんなことを私に体験させてくれましたね。姉も家族を大事にしてくれました。きょうだいが好き、きょうだいが一番だとよく言っています。
姉は実家で一緒に暮らしていたきょうだいでは一番上だったからだから、みんなのことを大事にしてくれたと思います。
家族の一人が海外に出稼ぎに行くと、フィリピンの家族はお金を自分たちに送ってくれるという期待を持っています。出稼ぎに行くと、たくさんお金を稼げるので、家族がお願いすればお金をくれると思っています。
フィリピンの人はみんなそんな感じなのです。海外へ出稼ぎに行っている家族の苦労を知らないんです。
だけど、私たち家族の場合は、いつも両親が日本にいる姉のことを心配していました。
海外に行くと、金儲けにばかり熱心になってしまい人を騙すようなことをするのではと思っていたそうです。
でも姉はそんな悪い人にならなかったのでよかったと思います。お金持ちにはならなかったけれど、それでいいんです。
人間性を失わなかった、思いやりが残っています。フィリピンらしくていい。

 

私は両親に感謝しています。
両親は息苦しいくらい、私たちには厳しかったけれど、それがよかったんだと思っています。
遠くに住んでいるけれど、今でも両親の前へでるとピリッとします。
怖いですが、それは両親へのリスペクトだと思いますね。

海と桟橋

 

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<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。