<サンパギータFile.2>マユミさんの場合
「痛い」と言えるようになって
でもね、実際はできないんですよ。私も10年近く、このことについて話すことができませんでした。
口を開くと、言葉ではなく涙しかでてこないんです。
もう大丈夫です。子どもと一緒に歩めているから。子どもと離れてないから。うれしいじゃないですか。人間、どこかで犠牲を払わないといけないのです。我慢しないといけないこともあります。もっといいプランがあるかもしれませんが、どれかひとつくらいは我慢したらどうだろうと思います。全部我慢しなくていいんじゃなくて、どこかを我慢する必要があります。それが人間。ハッピーにはどこかで犠牲があります。
私は強くならないといけないと自分に言い聞かせて、山を登ることができ「やった!」と思います。自分の心を成長させられるようになりました。本当に幸せです。
私はフィリピーノだから、家族をとても愛しています。住んでいる家は別々ですが家族は絶対に引き離すことはできません。
最近では私から来てほしいと頼むのではなくてパパのほうから「息子の音楽会はいつあるの? ボーイスカウトの行事はいつ?」と聞いてくるようになりました。いいことだと思いますね。神様が私の努力をみてくれていたのだと思っています。どれだけ暴力をふるわれても、愛に変える。
2、3年前からようやくI’m ready to talk about my life, my pain.(私の人生や私の辛い経験を話す心の準備ができました)痛みは山ほどありましたよ。息子に、両親は悪い人だと思ってほしくなかったから、私はこのことを誰にも話しませんでした。フィリピンの家族にも話しませんでした。
離婚後、フィリピンに一度パパと息子と3人で帰国したときに、パパに、フィリピンの家族ってこんなのだよと見せたことがあります。フィリピンの家族は、パパを大歓迎し、温かくもてなしました。パパは、自分が悪いことをしたと思ったのでしょう、私のきょうだいに「愛している」と言って泣いたのです。
私は、相手を変えるには自分が変わるしかないと思っています。
言いたいことは一度相手に言ったら、それで終わり。次へ進む。私の心はこうやって回復してきたの。完全に克服したわけではなく、まだ痛みや傷はあります。でも今笑顔でどんどんしゃべれるんです。前は怖いというか、恥ずかしいというか、なんだかわからなかったです。人と会うとき、いつも泣いていました。でもようやく経験を喋れるようになりました。「こんなに穏やかな感じなのに、そんな経験があったの?」と驚かれます。
自分の両親が私を学校に行かせ、しっかりと育ててくれたのは、こうして自分で乗り越える強さを学ぶためだったのだと思います。なぜこうなったのと泣いてばかりいたら乗り越えられない。自分が先に自分の愛で赦してあげる。
私は自信を持っています。息子の心の中に私の代わりはいません。息子を誰かに預けたことは一度もありません。夜の仕事もしません。お金は大切かもしれないけれど、私の時間は今しかない。一緒に時間を過ごさないと、大きくなったらそれはできません。ゆっくりと取り組める仕事をもったから時間の余裕があります、思った通りに大事に育てたい。お金はないけれど。
息子はすごく遠慮をする子ですが、人に迷惑をかけないようにしたほうがいい人間に見られるから、そのほうがいいです。私がいなくなったら、息子は困ってしまいます。人はみんな働いて、暮らしています。おばあちゃんに何が欲しいと言われても「よく考えなさい」「いただいても1個にしなさい」と、多くを求めないことを教えてきました。そう言って育ててきたので、息子に「これ欲しい?」と聞くと、「今はいらない、まだあるからいい」と答えます。
そんなふうに遠慮する息子を、姉が不憫に思うようだけれど、それでいいのです。息子が大きくなってから、あれも欲しいこれも欲しいという甘えた心を持ってほしくありません。フィリピンではみんな甘いから、それでも生きていけるでしょう。だけど、日本では難しいのです。お金は少しでも残して貯めていかなければと言い聞かせています。たとえば1,000円持たせても、欲しいものを買った残りのお金を貯金するのが習慣になりました。一番安いものを買って残りを貯めていく。それでいい、ここは日本だから。お金が貯まったら、買いたいものを買うのよ。私は元銀行員だからね。
かわいらしいのは、「このATMってお金を入れたらなくならないの?」って息子が聞くのよ。「コンピュータで記録されるから大丈夫だよ」と私は答えます。彼は親戚からお小遣いをもらっても、使わずに貯めているんですよ。堅実な子どもに育ってくれました。
奈良雅美(なら・まさみ)
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。