<サンパギータFile.3>リザさんの場合
リザさんはかつて歌1本で20年間生活を支えてきた。今は清掃の仕事をしながら、時折神戸のライブハウスで歌っている。生まれ故郷のフィリピンよりも日本での暮らしのほうが長くなった。
1980年代、フィリピンから来日するエンターテイナーが急増した。彼女はそのうちの一人だ。
1983年からキャリアをスタートさせ、2005年に日本の法律が改定されて興行の在留資格取得が厳しくなったため、日本に定住して暮らすことに決めた。
筆者は、歌う彼女を見たことがなかったが、たまたまインタビュー直前、2021年11月23日に神戸でライブがあると聞き、彼女の歌を聴きに行った。
ステージではアメリカンポップスから日本の曲、ジャズまでさまざまな曲を、ギターをバックに披露し、来場者から大拍手をもらっていた。彼女の声は低音から高音まで太く伸び、少しハスキーなところが歌に立体感を与えていた。
自信に溢れた目線を観客に送り、曲の間に、軽妙なトークを客と交わしジョークを飛ばす。ステージの上の彼女は眩しいほどキラキラとしていた。
しかしインタビューの中ではステージで脚光を浴びるシンガーの側面だけではない、彼女が経験してきたさまざまな狭間の世界が見えてきた。
聞き取りの当初は日本語だったが、すぐにもっぱら英語で彼女は語り始めた。
子どものころの私
2006年から「日本人の配偶者」のビザ(在留資格)で日本に住んでいます。もっともっと昔のことは、思い出さないと話せないわね。
私は1964年3月11日生まれ。両親にとって9番目の子どもです。母は2度目の結婚でした。母は最初の結婚で5人の子どもをもうけ、2回目の結婚で11人の子どもを産みましたが、私の次に生まれた子は生まれてまもなく亡くなりました。この話は、妹から聞きました。
他の家族に比べても、やっぱりきょうだいは多いわね。ほんとうに賑やかな家族でした。お兄さんがギターを弾きながら、みんなで歌を歌っていました。
でも、みんな外国にいって家族はバラバラになってしまいました。一番上の姉はすぐ結婚してずっと専業主婦でしたが、他の姉妹と兄の一人は海外へ出稼ぎにいきました。きょうだいが多いから、出稼ぎしなきゃしょうがなかったです。
1980年代、父と母は10人の子どもを抱えて日々の生活に精一杯だった。母がやりくりに苦労していたわ。たびたび両親が生活費を巡って喧嘩するのを見ていました。
夕食の食卓で、姉の一人がテーブルのお皿の中を見て、私のはたったこれだけ、と泣き出したことがあったわ。私は末の方の子どもだったのでまだ多めにしてもらえたけれど、上の姉たちは我慢させられていましたね。私はお腹いっぱいに食べていました。それが私の子ども時代の日常風景でした。
私は子どもの時からリーダーになることが多かったです。教会だけでなく、学校のクラスでは選抜されて合唱グループに入りステージで歌いました。タガログ語で「私の国」という意味の歌の「アンバイアンク」とか、フィリピン各地のいろんな地方の歌を歌いましたね。とても楽しかった。
体育、音楽、英語、大好きな科目でした。ROTC(予備役将校訓練課程)のミリタリートレーニングにも参加しました。
私は半分男性のキャラクターを持っています。男性と女性と半々の性格だと思います。自分にも人にも厳しかったりしますね。白黒はっきりつけたいタイプだと思います。
私は決して完璧な人間じゃないけれど、無駄は好きじゃない。そして何に対してもトラスト(嘘をつかないこと、正直であること)を重視している。友達との関係だけじゃなく、お金についても、仕事についても。
曲がっていることがきらいだし、言い訳も好きじゃない。
あまりにストレートにモノを言うのできょうだいたちは怖がっています。ただ私はきょうだいで一番上ではないので、全員に支配的な振る舞いをしてはいません。
父も母もしつけには厳しい人でした。子どもが悪いことをすると、厳しい態度を見せていました。甘やかさない。
あるとき母が私に何かのことについて注意したときに私が無視したことがありました。母は父にそれを言いつけ、父が窓のつっかえ棒にしてあった木で私の脚をぶったことがありました。制服のスカートが破れるほどでした。
きょうだいみんな、言うことをきかなければ父や母に厳しく怒られましたね。ルール、規則、両親の言うことには従うように躾けられてきました。学校が終わったらすぐ帰る、出歩かないなど。
だから私も、自分にも人にも厳しいのだと思います。ただ人に声をかけるときはキツくならないように言葉を選ぶようにはしています。
奈良雅美(なら・まさみ)
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。