<サンパギータFile.3>リザさんの場合
歌が好き
11月のライブ、来てくれてありがとう。ギターとのデュオはやったことがなかったので、私にとってチャレンジでした。いつも、ジャズのときはだいたいピアノ、ドラム、ベースのトリオだから。いろんな楽器と一緒にプレイするのは、自分も勉強になる。
歌が好きになったのは、家族で音楽に親しんでいたのもあるけれど、小さなころから教会で歌っていたというのもあります。クワイヤに入って、聖歌を歌っていました。学校の音楽の授業も好きでした。
本当に音楽、歌が好きでした。
歌手になろうと思っていたのは、小さい時からでした。17歳のときテレビのカラオケコンテストに出場したんです。「Student Canteen」というバラエティ番組です。オーディションに合格してテレビに出演することができました。その時は残念ながら、優勝できませんでした。
オーディションで歌った曲は今でも覚えていますよ。メリッサ・マンチェスター(アメリカ合衆国のシンガーソングライター)の「Looking through the eyes of love」でした。その時は私よりもうまい人がいてね、私は負けてしまったけれど、諦めなかった。
大学2年生に進級する直前、きょうだいが多くて両親が私の学費の支払いに困難をきたしたため、私は大学を諦めて退学しました。でも、またお金を貯めたら復学するつもりでした。
私はオーストラリア人の経営する「スワグマンホテル」のバーでシンガーのキャリアをスタートさせました。同系列のホテルが他に2つあり、それらを含めた3箇所のホテルのバーをローテーションしながらバンドと一緒に仕事をしました。
実は、このホテルでの歌の仕事の前に日本に歌の仕事へ行くためのオーディションも受けていました。でもそのときは、ビザ(在留資格)が出なくて行けなかったのです。アンラッキーでしたね。ホテルでの歌の仕事だけでは収入が乏しかったので、昼間はデパートで店員の仕事もしていました。
ホテルで働きはじめてしばらくすると、あるエージェンシーのマネジャーが私を訪ねてきて、オーディションを受けてみないかと誘ったんです。マネジャーはフィリピン人でしたが、プロモーターは日本人でした。プロモーターはフィリピン人のタレントが欲しいときには、フィリピンのエージェンシーに依頼してタレントを探してもらう、そういう仕組みでした。
私はテレビ番組のコンテストでは負けてしまいましたが、ホテルでチャンスが訪れましたと思いました。
このとき私はビザ(興行)を得ることができ、日本にやってきました。19歳のときでした。
私が歌を歌うのがとても好きでした。だから父に日本に歌の仕事で行くことを認めてもらいたかったのです。でも父は私のことを心配して、最初は首を縦に振りませんでした。私は十分大人で、働くことができる、お金を稼がなければいけないからと父を説得しました。
シンガーとしてすでに日本とフィリピンを行ったり来たりしていた友だちから話を聞いていたこともあり、不安はあまりありませんでした。彼女には日本語の歌の歌詞をもらって、日本語の勉強をしました。
また、私の姉(グロリア)も日本にタレントとして仕事で行っていました。姉が時折持って帰ってくるお土産に、私は胸が高鳴りました。キティちゃんのキャラクターグッズ、チョコレートやスナックなどのお菓子、かわいいものでいっぱいでした。なんて可愛いんだろう、日本に行って私も買いたい、と思いました。
歌を歌って仕事をしたいと思ったのももちろんあるけれど、可愛いモノの文化の日本への強い憧れがありましたね。
奈良雅美(なら・まさみ)
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。