<サンパギータFile.3>リザさんの場合
日本各地を転々としながら
いつか東京に行けると思っていましたが、結局東京で歌を歌うことはありませんでした。
日本で半年仕事をしてフィリピンに少し帰国してまた日本へ。その繰り返しの10数年でしたね。
今思えば、フィリピンから出発する前に、日本で暮らすためになんの研修も受けられなかったのは問題だったと思います。プロモーターはそんなことに一切配慮してなかった。日本に派遣する前に、彼らは日本語教育を提供し、自分で言いたいことが言えるかどうか、トラブルになったときに自分で自分のことを守れるように、研修をして日本語力をチェックするべきだったと思う。
でも彼らはまったく研修をしなかったの。ただ日本に連れてくるだけ。
日本にやってくる女性たちはいっぱいいたけれど、日本についてまったく知識がないまま来日していました。そしていきなり仕事場に放り込まれるの。だから、現場ではせいぜいカタコトの日本語しか習得できないから、丁寧な言葉使いを知りません。そんなフィリピン人女性を見て、私はとても悲しくなります。
エージェンシーは、日本に行きたい女性たちから、手数料を取っておいてなんの研修も受けさせずに送り込む。ひどい仕組みです。
最初に契約したとき私の給料は月600ドルでした。来日時の手数料、家賃を引かれていたので最初の6ヶ月、給料はゼロ。お小遣い程度のお金のみ渡されていました。もしフィリピンにお金を送りたいなら前借りしなければいけません。6ヶ月後にやっと給料が支払われるという仕組みです。
本当の給料は600ドルではないとは思っていました。プロモーター、エージェンシー、マネジャー、彼らが手数料を抜いているんだろうと。彼らの手を経て、私のところに落ちてきたのが600。ただこういう契約内容であることは、来日前から私は承知していました。父は軍の調査官だったのでこういう契約には詳しいと思い、契約内容については事前に相談していました。だから父も契約内容を了解済みで、契約書のコピーも渡していました。父は私が仕事に行く場所の住所を見て、なんて遠いのだ、と言っていました。東京でも大阪でもない。姉のグロリアは山梨県で仕事をしていましたが、そこからも遠かった。
6ヶ月の契約終了後、一旦フィリピンに戻りました。そこで1、2ヶ月過ごしてから、同じエージェンシーと契約してまた日本にやってきました。すぐ再来日するか、しばらく休むかは私の意思に任せられていました。私はすぐにでも働きたかったのです。
次の仕事場は群馬県渋川市の伊香保温泉。石坂旅館の中にあるスナックです。そこも生バンドはなく、やっぱりカラオケでしたが。
この6ヶ月間、私は旅館の一室で寝起きしました。ここでの生活は毎日温泉に入れたし、快適でしたね。その頃には日本語の歌もかなり歌えるようになっていました。レパートリーは、そう、50曲ぐらいだったかな。古い曲ばかりです。ラブソング、演歌、ポップス、なんでも歌いました。日本の歌は最初難しかったけれど、メロディがいいですね。当時、お客さんからリクエストが多かったのは、テレサ・テン、石川さゆり、森昌子、美空ひばり、松田聖子。
仕事は夕方の5時ごろから始まり、早くて11時か12時ぐらいに終わります。休みは日曜日だけでしたが、たまに日曜日も仕事に呼び出されたりしました。時々友だちと外へ出ることもありましたが、ほとんどどこにも遊びに行きませんでした。
給料は少しずつ上がりました。伊香保温泉での仕事は前の契約より100ドル上がって月700ドル。また次の契約の時には100ドルアップ、というふうに。契約が終了すると一旦フィリピンに帰るのですが、またすぐにビザを取得して来日していました。フィリピンに帰省したときは両親の家に滞在し、時折友だちと出かけたりする程度でほとんどオフをとっていました。その繰り返しです。
その次は埼玉県浦和市(現さいたま市)へ。そこは大きなクラブで、たくさんのショウダンサーのフィリピン人がいて、彼女たちとは同じ寮に住んでいたのですぐに友だちになりました。ステージは、彼女たちのダンスと私の歌とで交互に構成されていました。平日も週末も関係なく、毎晩、夕方5時から翌朝までステージをこなしました。休みは交代制でとっていましたね。
そこから、石川県山中温泉、千葉県市原市、宮城県気仙沼市へと。気仙沼には日本人男性と結婚した友だちが今でもいます。そして秋田県秋田市へ。ここは指名があって、続けて2回契約更新しました。大体どこも仕事場は同じようなもので、ホテルかクラブかカラオケバーかミュージックバーかです。興行ビザでの仕事場は「ステージ」がないと入管に認められませんでした。ステージの高さの確認に入管職員が来ていましたね。あるとき、私が仕事についたお店のステージが認められなかったときがあって、仕事を始めてわずか1ヶ月か2ヶ月ですぐに別の横浜市の店に移動させられました。
それから、福岡市、そして最後は鹿児島県の種子島で仕事をしました。そこが20年近くにわたる私のキャリアで最後の契約となりました。
日本で一番いい印象の街は、隠岐島ね。人々が温かくて、優しい人にも会えたし。日本語を教えてくれた人にも出会えたから。
逆にあまりいいイメージがなかった場所は、ヤクザが出てきたところ、そう福島だった。福島県田村市船引町。クラブのお客さんにヤクザが怒声を浴びせかけて、とても怖かった。
私たちが福島県に来る直前にフィリピン人ダンサーの殺人事件が起きたのね。そのことと関連があったのかもしれないけれど、ヤクザが店に入ってきて、フィリピン人のダンサーをよこせと怒鳴ったのです。私は一体なにが起こったのか分からなかった。私は泣き叫びました。フィリピンに帰らせてほしい、って。でも店長は大丈夫だからと言ってなだめました。私は違法に働いていたわけではなかったけれど、中には違法の仕事をしていた人もいました。私はきちんと契約書を交わしていたし、エージェンシーはライセンスを所持していました。だから問題ない、大丈夫と言い聞かせました。
他の国のタレントとフィリピンのタレントが喧嘩したこともありましたね。ロシア人のタレントとフィリピン人のタレントとの間でした。時に殴り合いになったことも。私はリーダーとして度々仲裁に入りました。
私のタレント人生で問題だったのは、ブッキングだけね。結局、東京で仕事をするチャンスは一度もなかったわ。最初は東京へ行けると期待していたから。考えると、東京には多くのタレントがいるから私が入っていけるチャンスはあるはずがなかった。
でも、プロのシンガーになりたいという夢、それ自体は、日本で叶えることができました。
そうね、これからの夢は、レポーターの仕事をすることとレコーディングをすること。実はレコーディングしないかと、フィリピン時代に言われたことがあります。でもちょうどその時に、日本行きのビザが発給されたところだった。私はレコーディングのオファーは断って、日本に行くことを決めました。
振り返ってみると、選択肢があるときは、いつでも日本へ行くことを選んできました。私にとって日本の優先順位は高いんですね。
他の国で仕事したこともあります。マレーシアで2ヶ月間の後、ツーリストのビザだったけれどタイ、シンガポール、香港、中国でも歌いました。2、3日だけ滞在して、ステージを演ってすぐ次の街へ移動。
どこでも日本語の曲を歌いました。なぜなら、クラブのオーナーが私の姉の友だちで日本人だったからです。クラブのスタッフは国際色豊かでしたね。パキスタン、中国、マレーシア、インドネシアなど、いろんな国の人々が20人くらい集まっていました。そんな中で仕事ができたのはとてもいい経験でした。あちこち旅をしながら仕事ができたから。日本だと普通なら長い期間バケーションを取ることができないでしょう。取ったら首になってしまいますよね。
奈良雅美(なら・まさみ)
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。