File.3-10 フィリピン社会

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.3>リザさんの場合

フィリピン社会

 

私の親類は世界中で暮らしているのよ。甥はドバイで理学療法士の仕事を、別の甥っ子はシアトルで看護師をしてるし、私は姉妹たちと同じように日本に住んでいる。
なんでフィリピンを離れて暮らしてるかって? よりよい未来を求めて国を離れたの。
フィリピンはいろんな問題があるし、なにより貧困。貧しい人々はより飢えていく。
大家族の家は、貧しく、進学もできず、仕事を見つけるのも難しいの。だから。

 

この30年ほどの間でフィリピンがどんな変化をしてきたか。そう言われても、実のところその間私はフィリピンのことをほとんど知りませんでした。なぜなら、私はずっと働くことと、節約して貯蓄することに集中してきましたから。半年間の契約を何十回と繰り返し、フィリピンへ帰国しても一時的な滞在に過ぎませんでした。日本ではあちこち仕事で行きましたが、フィリピンは3ヶ月ビザの更新のために帰るだけ。だから、フィリピン社会がどうなっているのか、あまり知ることもなかったのです。
貯蓄してフィリピンの土地を購入したのは、自分の帰れる場所を確保したかったから。歳をとって働けなくなったら収入がなくなるでしょう。将来自分が老後を安心して過ごせる場所が欲しかった。賃貸ではなく自分の財産が重要です。フィリピンでは社会インフラが改善しました。道路、高速道路、空港、病院など、帰るたびに良くなっているのに気づきます。社会保険制度(SSS)もできました。この間のドゥテルテ大統領の施政がよかったのです。

車の渋滞

とはいえ生活は苦しい。特に医療費が高いので私はフィリピンの家族を助けるために医療費を支援しています。
それから、私はフィリピンの姪や甥の学費を助けています。私は大学を卒業することができなかったから。それは私にとってとても悲しいことだったの。彼らはとても賢いの。私は彼らに進学しなさい、と言い続けました。だって私のような思いを彼らには味わわせたくないから。
姉たちには子どもが多いから、大学にまで進学させるお金がないのです。甥や姪は私に学費を援助してほしいと頼んできましたが、私は一切「ノー」とは言いませんでした。「いいわよ。助けてあげるわ。進学しなさい。ただし、勉学に励みなさいよ」と言って、何人助けたかしらね。5、7人。そう7人になるかしら。そんなに金額は多くないわ。私だって自分の生活があるしね。
他のきょうだいたちも、助けられる余裕があるときに助ける。ずっと長い間のことではないから。短い期間よ。彼らが勉強に集中できるようにサポートするの。

 

私は大学を卒業することができなかったから、仕事探しにはとても苦労したの。父は軍隊で働いていたこともあって、政府からのサポートはあったけれど、十分ではなかった。
フィリピンは日本のように福祉制度も整っていない。奨学金制度もあるけれど、限られていて条件は厳しかった。非常に高い成績を求められるのでチャレンジしようという意欲を喪失する学生もいます。私の問題は、私の両親が私の大学進学を援助してくれなかったことです。彼らが大学を卒業していたら、違っていたのでしょうけれど。
フィリピンは健康保険制度も社会保障も整っていない。とくに健康保険制度が整っていないのはシビアな問題です。安心して暮らせない。フィリピンが変わらなければいけない第一のポイントです。私もときどき、フィリピンへ帰ろうかなと思うのですが、健康保険がなかったら安心して働けないと二の足を踏みます。
その点、日本は健康保険制度があるので、健康診断も受けられるし、診療を受けられます。フィリピンで病院に緊急搬送されたとき保障金として50,000ペソ(約12万円)の支払いを病院から求められたの。だから、新しい大統領には、フィリピンに信頼できる医療制度と健康保険制度を確立してほしいと思う。

私たちはそんな中でなんとか足掻いて生き延びてきたのです。

 

たまにフィリピンへ帰ると、バスやジプニーに乗るとどきどきします。慣れていないという感覚です。中には悪い人もいるからね。ひったくりとかね。だから帰国した時は甥に車で送迎してもらっている。
でも日本だと安心して公共交通機関を利用できる。そういう感覚ってなんていうのかしらね。

ジプニー

 

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<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。