File.4-6 感謝を伝えたかったのに

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.4>愛さんの場合

感謝を伝えたかったのに

 

日本語が出てこない私に親切に言葉をかけてくれました。
私は答えたかったけれど、動転していることもあって日本語がうまく話せませんでした。
いつか恩返しがしたい、そう強く思いました。

 

まだ日本語を十分話せない頃でした。地震が起こった2011年3月11日、あの日は金曜日でしたね。群馬の友だちに会いに行く予定で、11日のお昼に仙台を車で出発して12日夜には現地に着いている予定でした。だから娘のミルクも家にあった分だけもっていき、あとは向こうで買えばいいやと思っていました。おむつも服も。おむつも向こうに着いたら買えるし。
車で出発してしばらくして直線道路のところで、前の車がハザードランプをつけて停まっているのが見えました。すると前に揺れるような感じがしたのですが、後ろの座席から運転席の背もたれを娘が蹴っているからだと思っていました。全然地震を感じてなくて。前のポールが斜めになってポンと落ちた。これは地震だと気づきました。
実は車で出発する前にも、近所の犬がいつもはあんまり吠えずおとなしいのに、その日だけはめちゃめちゃ鳴いていたんです。それも変わった鳴き声「ウオーン、ウオーン」という感じでした。まだ地震がくる前です。カラスも滅多に集団で見ることがないのに、そのときは集団で飛んでいて、なにこれ、と驚いたことを覚えています。なにこれと思ったけれど、たぶん大丈夫と。だれも想像しないですよね。

カラスの群れ

車乗って、角を曲がって。すると道を猫が走っていっていました。なんだか変だなと思いながらも、走っていると突然大きな音がしました。大きな風みたいな。どこから、とかなにも思わなかった。
そのうち車が渋滞して、進めなくなり、ストップ。見ると電柱は倒れ、建物も倒れていました。
3月11日はまだ寒かった。ガソリンは満タンだったけど、エンジンをかけっぱなしだったので不安だった。私たちはここに何日留まらなければいけないかわからなかったのでエンジンを止めた。
警察官がやってきて水を配ってくれた。警察官も必死に、動けません、じっとしていてくださいと、マイクで呼びかけていました。信号も倒れていて。トイレ行きたい人は、そこで排泄したり。娘はおむつがあったので大丈夫だったのですが。おしっこもうんちも、頭にはない。頭の中は真っ白。仙台で借りていたアパートは倒壊し、大家さんも亡くなりました。
結局そこから動くことができず丸2日間、車で生活しました。

 

2日半経つと自衛隊や警察が来て、道路上を車が通れるようになりました。その辺を見ると、他の車は横転したり、損傷したりしていましたが、うちの車はなにも損傷がなく、ガソリンも入っていて動ける状態でした。
何日間かは車で近くの避難所へ食料だけもらいにいきました。当時、夫は会社の本社がある群馬でほとんど暮らしていて、1ヶ月に1度仙台に帰ってくる程度だったので、そのときも夫は群馬にいたのです。そのうちに夫が迎えに来て、一緒に2台の車で群馬に向かうことができました。
仙台の家はなくなってしまったので、そこからは私と娘も夫と一緒に群馬で暮らしました。

 

避難所では、食料をボランティアの人が配っていました。自衛隊の人が避難所を案内して教えてくれた。寒かったので避難所に娘と一緒に入りました。娘はストーブの上のやかんを触って火傷して泣いてしまったこともありました。
避難所で食べ物をもらったのですが、上達していない日本語だったのでなかなかうまく話せませんでした。そのとき、日本のボランティアの人たちは、みんな言葉がわからない私にも話してくれて、すごいなと思ったのです。もっと感謝の気持ちをうまく伝えたかったんです。でも日本語がでてこなかった。

女性の手を握る

だから、もっともっと日本語を勉強して恩返しの仕事ができたらいいなと思いました。日本語がもっとわかったら、ボランティアもできるし、困っている人を災害のときだけでなく、日々の生活のなかで助ける活動ができると思ったのです。

 

この経験が今は、学校で日本語がわからない子どもを助ける仕事をしていることにつながっていると思います。

 

▶︎File.4-7 群馬から兵庫へ へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。