<サンパギータFile.5>コラゾンさんの場合
ダンサーとして働き始める
機内で赤ワインを何杯も飲んで酔っ払ってしまって、岐阜に着いたとき、地面にキスをしたの。嬉しくて。
なんだかんだあるけれど、これは私にとってチャンスだと。稼げる、と思いましたね。
オーディションに初めて受かったときは、すごく嬉しかった。ビザを半年間待ってようやく日本に行く切符を手に入れた。22歳になっていました。ダンスも忘れそうでした。
行く場所によって、どれくらい待つかはいろいろ。コンプライアンスがいい加減な店だとビザは出にくいし。直前に、店からダンサーはいらないと受かってからキャンセルされたり、一緒に行くメンバーが妊娠したため断念したりすることもあった。ビザはチームに対して出されるので1人でも欠けるとダメなんです。だから日本へのフライトが決まるまでドキドキしていました。いつ仕事がなくなるかわからないから、お金はいつも節約していました。
初めての仕事先は岐阜県可児(かに)市今渡(いまわたり)というところでした。
日本に着いて最初に行ったところは百円ショップ。とりあえず生活に必要な物を揃えるためでした。手渡される生活費は1日500円。給料は帰国の飛行機に乗る時にしかもらえないんです。それも5ヶ月分まとめて。半年の契約期間のうち1ヶ月分はエージェンシーの取り分です。それは契約時に了解していることです。
1日500円は一人で使わず、みんなで1週間分をまとめて買い物してやりくりしました。残ったお金は家族に送ったり、身の回りのものを買ったり。20人ぐらいでまとまって住んでいました。掃除、料理など、順番に担当しました。お風呂も順番で、2、3人が一緒に入っていました。そんなスタイル。喧嘩もありました。いろんな子がいましたしね。私は1回も喧嘩しませんでしたが。楽しかったです。
初めての経験が多かった岐阜は忘れられないですね。岐阜に着いたときの感激は今でも覚えている。米も、肉も、食べものが美味しくて。一番ハマッたのは、インスタントの焼きそばとカップうどん。チョコレートを買ったときは嬉しくて「夢みたい!」と思って、ベッドの上でチョコレートを並べました。
私、日本に来た時は45キロしかなくてガリガリだったけれど、岐阜で美味しいものを食べて5キロ太りました。すぐには一人で食事は行けなかったけれど、ラーメンとか、先輩の「同伴」に一緒に連れていってもらったりしました。
失敗もありました。車の後ろに乗ったとき、シートベルトの仕方がわかりませんでした。フィリピンではシートベルトをしないから。「シートベルトをして」と言われたとき、ベルトを引っ張りだして結んだんです。目的地に着いて「降りよ」と言われたけれど、ベルトが外せなくて。「あんた、なにやってるの」と笑われました。自動ドアもわからなくてぶつかったりして。そんなことも忘れられない。
お店には、ステージが設置されていたけれど、小さなところばかりでした。せいぜい入って20人から40人くらい。鹿児島と大分、神戸の新開地のお店も小さかった。
お店は早くて夜7時ごろからスタート。終わる時間はいろいろですが、深夜1時とか2時かな。鹿児島のお店では深夜2時が一応閉店時間でしたが、お客さんがいる限りはやっていました。休みは月2回しかなく、めっちゃ働かされました。
岐阜の時はちゃんとダンスしていましたが、お酒が入ってしまうとみんなバラバラでした。ダンスをしないといけないところもあったけれど、全くしてないところもありました。静岡の店では全くしてなかった。ダンスではなくホステスメイン。契約のときには聞いていなかった。
契約通りのところはほとんどなかった。私は日本に行ったことがなかったので、「同伴」とか「指名」とか、お店でお酒を飲まなければいけないとは知らなかった。日本人は優しいとか、めっちゃチップくれるとかしか聞いてなかった。
一晩に1回とか2回とかステージして、夜8時から深夜2時まで接客。何人かダンサーがいるから、みんなが踊るわけではなく、お客さんが見たいと言えばする程度で、時間が決まっていても形だけのところが多かった。仕事のメインは接客だなと思い知らされました。しょうがない。
英語が少しは通じると思っていたけれど、日本人のお客さんは全く通じませんでした。彼らが話せるのは、せいぜい「あいらぶゆー」とか「あいうぉんちゅー」とか「さんきゅう」とか。あははは。
毎回新しいお店に行くと、驚くことがありました。社長が違うからシステムが違う。
神戸と大分のお店が一番よかった。神戸のお店は同伴もアフターも禁止だったから、守られている感じがした。気も楽だった。「同伴」しなくていいから。静岡と鹿児島は厳しかった。だって必ず同伴しなきゃいけなかったから。
静岡では社長が九州出身の人で、すごく厳しかった。社長の家に住み込んでいたので、「同伴」できなかったら、何台もある社長の車の掃除を命じられました。寒い時期にも容赦ありませんでした。家の掃除をさせられることもありました。
鹿児島も大変だった。店長が、同性愛者の50歳くらいの女の人だった。私は太りやすい体質だったので、仕事が終わってから絶対に食事をするなと言われました。店長も一緒に住んでいたのでチェックされました。携帯も持ったらだめ。電話するなら公衆電話で10円玉を入れてかけなければいけなかった。朝起きたらお客さんに電話しなければいけなかったのですが、そのときも公衆電話でかけさせられました。お客さんを家まで呼んだりして。そのお客さんの応対をさせられる担当の子もいた。
店長は酒が好きで、酔っ払ったら、私たちをおもちゃにした。物のように扱った。私が血液型はAB型だと言うと、いじめられた。コメもあまりくれないし、暖房もない。特に女の子に対してのパワハラがひどかった。嫌がる女の子をトップレスにさせたり、掃除をさせたり、長いミーティングをしたり。ミーティングといっても、説教です。自分がしゃべりたいだけ。眠くてうつむいてしまうと、包丁で脅されたり、庭木の剪定をさせられたり。
社長はほとんど不在で、その店長に任せっきりだったので、彼女はやりたい放題でした。私は、毎日毎日帰りたいと泣いていました。パスポートも取り上げられました。フィリピンへの電話も制限、なにもかも制限される日々でした。彼女は人間じゃない。途中で辞めて帰りたかったけれど、帰らせてくれなかった。私は嫌われていたのに。毎晩毎晩、悪い夢をみました。地獄でした。お客さんは優しかったけれど。嫌な思い出です。契約期間が終わった時はほっとしました。
契約のない期間はひたすら練習をしてオーディションを受け続けました。化粧してオーディションを受けて。毎回半年間の契約で、契約期間が終了するといったんフィリピンに帰国し、またオーディションを受けて、合格したら日本のビザが下りるのを待つ。その間は、お店のリクエストに合った種類のダンスの練習をしていました。その繰り返し。7回契約更新をし、正味合計3年半をダンサーとして仕事しました。
最後のタレントの仕事になったのは、神戸のCというお店でした。ボロくて、エレベーターもないお店でした。でも神戸が一番。全てよかった。仕事も、その時のチームも、社長も。心があたたかくて、外国人に優しかった。
奈良雅美(なら・まさみ)
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。