<サンパギータFile.1> けいちゃんの場合
私の日本の家族(前回のつづき)
●フィリピンと日本をつないでくれる家族
フィリピンへは年に2回、家族全員で帰省しています。
フィリピンの家族も私たちが訪ねるとお祭りのようにして歓待してくれ、息子たちはフィリピンへ帰るのをいつも楽しみにしています。
息子たちもカトリックの洗礼を受けていますし、フィリピンの文化にも親しみを持っています。
例えばフィリピンでは年配の人を大切にする習慣があり、年上の人への敬意を示す挨拶を必ずしますが、息子たちは自然にフィリピン流の挨拶をしています。
また、ハグしたり、腕を組んだりするのも恥ずかしがりません。
夫は子どもたちが小さいときから「お前たちは日本の子どもとは違う。でもそれを恥じることはない。お母さんは日本人ではないけれど、同じ人間。言葉は違うけれど、一生懸命日本語を勉強している。恥じるのではなく、誇りに思いなさい」とずっと言い聞かせてきました。
「日本人だけじゃなく、他の国の血も入っているから、日本語だけでなく他の言葉もできる。それは他の日本人の子どもには普通できないことだから」と夫は子どもに語っていました。
私は子どもが生まれる前からずっと不安でした。
日本では、母親が外国人だからといって子どもから馬鹿にされることが多いとか、言葉が通じないから話をしない
などということを聞いていたので、自分の子どももそうなるんじゃないかと心配していたのです。
夫は「大丈夫、俺が言い聞かせるから」と言ってくれました。
その言葉を聞いて、私は一人じゃないと嬉しく思いました。
夫は、妻が外国人だから努力して理解しなければいけないと思っていたようです。
言葉の壁もあり、私のことを理解するのに苦労をしたと思いますが、夫なりにフィリピンについて本を読んだり調べたりし、いろいろな壁を乗り越えようと覚悟をして、私と結婚をしたそうです。
息子たちに、母親が外国人だからいじめられていないかと気になって「学校でなにかされていないか」と私が尋ねると、「いや、全然ないよ。お母さん、英語できるの、すごいねって言われるよ」と答えました。
あるときは、クラスの友だちが家に遊びにきて「君のお母さんの顔をみたい」と言われると、ほら、うちのお母さんだよ、と私を紹介してくれたりし、とても嬉しかったです。
息子は私と腕を組んで街を歩くのも平気です。
日本だとマザコンと言われそうですが、フィリピンでは当たり前です。
息子たちは、夫の言葉どおり、日本とフィリピンの両方の要素が自分にあることを誇りに思っているのだろうと感じています。
実は、もうひとつ。
長男の彼女は日本人で、フィリピンが大好きなのです。
自分で勉強したおかげで、少しタガログ語ができる彼女は、なんと長男にタガログ語を教えています。
ときどき、私にわからないタガログ語を尋ねたりします。
そんな二人を見てとても嬉しく微笑ましく思っています。
私は縁あって日本にやってきましたが、日本に来てよかったです。
家族に支えられていること、他のフィリピンの女性たちの支えになれていること、学校に行くという夢を実現できたこと、そこで学んだことを仕事や活動で生かせている。
もしフィリピンにいたら、叶えられなかったと思います。
▶︎File.1-6 私の仕事〜再び社会とつながる1 へ続く
奈良雅美(なら・まさみ)
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。