File.5-1 コラゾンさん 私の家族のこと

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.5>コラゾンさんの場合

コラゾンさんにお話を伺うのは、夕方いつも三宮(神戸)の喫茶店。「仕事帰りやねん」と言いつつも疲れた顔を見せず、長い時は3時間半も語ってくれた。

インタビューはほとんど日本語だったが、流れるような自然な口調で、私は相手が日本語の母語話者ではないことをすっかり忘れて聞いていた。

 

私の家族のこと

 

ぶつかり合い、傷つけ合ったこともありました。
辛いことが多かったけれど、それぞれ思うところもあったんでしょうね。
大人になった今ならわかる気もする。

 

私は1978年1月28日、メトロマニラのカロオカン市で生まれました。私の生まれたところは、庶民的な街でした。普通より少し貧しい人が住んでいましたがスラムではなかった。家は貸家でした。
母はマニラ生まれ。スペイン系でした。パンパンガ州の出身で、母方の祖父は仕立ての仕事をしていました。
一方、父は父方の祖父がプレイボーイだったので、きょうだいがたくさんいました。祖母は浮気を許していたらしいです。父方の祖父は世界的に有名なお菓子メーカーのえらいさんで、お金に余裕があり、すごく大きな家に住んでいました。父はその会社のトラックドライバーで、ビスケットなどお菓子の配達をしていました。父の弟たちもそこに勤めていました。
母は一度結婚していて2人子どもがいたけれど、夫が亡くなって父と再婚しました。父は祖父と同じくプレイボーイで、母との結婚前に別の女性との間に娘が1人いました。

 

私が幼い頃から生活が大変で、父と母はよく喧嘩していました。母は家計を補うために、人から仕立ての注文をもらって服を縫っていました。母は昔、父親(私の祖父)から仕立ての仕事をするように言われ、ピアニストになる夢があったけれど諦めたそうです。昔は「女の子は学校に行かなくていい」っていう考え方ですね。すぐ結婚するから学歴はいらないと。

ピアノ モノクロ

母が前の夫との間にできた2人の子どもは、娘が今、52、53歳。息子はすでに亡くなっているのですが、生きていたら57歳ぐらいかな。異父姉はあまり学校が好きではなかったようです。また、亡くなった異父兄はトラブルメーカーでした。父のことを自分の本当の父ではない、という感じがあったのか、嫌っていました。母を幸せにしてくれると思ったのに、父のせいで母が苦労していたので、それを見たくなかったようです。悪い友達に誘われ、10代の頃からドラッグにハマッてしまい、何度も刑務所に入っていました。
ただ異父兄は私には優しかった。よく遊んでくれ、私のためにおもちゃを作ってくれたりもしました。母と私はよく刑務所に面会に行っていました。

 

私が6歳の時に妹が産まれて、もっと大変な生活になった。父は運転手だからほとんど家に帰らない。休みの日でも、父は実家によく行っていて。母はすごいストレスだらけで、子どもにあたった。母は、子どもによく暴力を振るっていたんです。今は虐待でダメだけど、その時は問題じゃなかった。母はそのように育てられたんですね。スペイン系の人は厳しいから。異父姉はそれに耐えられなくて、結婚して家を出ました。彼女が17歳のときです。母は口うるさいし、手を出すし。でも、たまに仲良しのときもある。父もいい加減だけれど、家にいたくないのもわかる。大人になってわかる。父も悪いところがあるけれどね。
父のことは大好きでした。たまに仕事場に連れて行ってくれたり。父はいい加減だけど、怒らない。母と全然違う。父がいると、母は幸せ。父がいないと、母に殴られる。

 

家族での思い出といえば、家族で一緒に映画を観に行って、帰りに中華料理屋さんでご飯を食べたこと。狭い家で、2段ベッドがあって、両親が上、子どもは下で寝ていた。父が遅く帰ってくるときは、母は必ず父の食事を置いておいた。
本当は、母は父を愛していたと思う。ただ色々ストレスがあったと思う。父の物は触らない、スリッパも触らない。大事にしていたけれど、父が家にあまりいないこととお金のこととで、喧嘩がしょっちゅうでした。
姉が家を出たし、妹は体が弱く、死にかけたことがあったので、家事はさせないで全部私がしていました。

洗濯バサミと物干し竿

 

当時は家にテレビがなくて、私は近所に住む父方の祖母の家の、開いている窓の外からテレビを覗いていたけど、気づかれるといつも窓を閉められてしまっていた。祖母は、何で子どものいる女を選んだのだと、母との結婚を大反対していた。だから私たちも祖母には嫌われていて、家にも入れてもらえなかった。大きな家だったけれど。最後まで認めてくれなかった。それも母のストレスだった。
母は働き者だった。物を売ったり、バロット(孵化前のアヒルの卵を使った料理)を売ったり。私が祖母に冷たい態度を取られるのを見て、母は一生懸命働いて、私が7歳のときにテレビを買ってくれた。
でも本当は、それは父のためだった。それがあったら父がずっと家におってくれるかなと期待したんだと思う。あるとき、ふと、母が「お父さんのためにテレビを買ったのになんで家におらへんの」と言っていたから。娘のためと言っていたけれど、父のため。父が好きなバスケットボールの試合がテレビで見られるから。
なんだ、私のためじゃなかったんだ。

 

母は家事のやり方とかにも厳しかった。8歳のとき、おつかいに行って間違ったときに、怒られて、お店に行って交換してもらえと追い返されました。気に入らなかったら、手をつねられた。お米を炊く時も、焦がしたら怒られていた。もったいないって。でも子どもだから遊びたい。ずっと火加減を見ていられないから。女としての礼儀とかもしつけられました。
非常に厳しい母でした。

 

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<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。