File.2-3 甥の“母”になる

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.2>マユミさんの場合

甥の“母”になる

 

若いときの私にとって、もっとも苦労したことはジョセフィーヌ姉さんの息子を預かって育てたことですね。
本当は兄夫婦が預かることになってたんです。でも義姉が意に沿わないようで、その義姉に遠慮したのか、兄はやっぱり預かれないと言い出し始めたんです。
日本に出発しようとするジョセフィーヌ姉さんを見送りにきた、まさにその空港でですよ。
私は、誰からも見放されているようで、姉さんの息子がとてもかわいそうになりました。

 

飛行機

 

フィリピンでは子どもを親戚が預かって育てることは珍しいことではありません。
私が大学生のとき、両親はすでにリタイアして遠方に住んでいました。私はジョセフィーヌ姉さんに学費を助けてもらっていることもあって、甥っ子を預かって育てました。

 

あるとき、甥っ子が咳喘息で苦しんでいて看病しなければいけなかったけれど、私は試験があったので大学へ行かなければならなかったのです。
母に助けを求めたところ「あなたが二つになればいい」と冷たく返され、来てくれませんでした。
私は大学に行きたい、テストを受けたい、と泣いてしまいました。遠くに住んでいる2番目のグロリア姉さんに電話をして、来てくれるよう懇願しました。
すると、その姉はうちに来てくれ私の代わりに甥っ子についていてくれました。
私はテストだけ受けに大学へ行き、すぐ家へ飛んで帰ってきましたよ。まったく、こんな大学生っている?

 

Blessing and a Curse.(素晴らしいことだけれど困ることでもある。良し悪し)そんな英語がありますね。
私は姉に経済的に助けられたけれど、甥っ子の面倒はみなければならなかったのです。
それでも甥っ子を一人で立派に育て上げましたよ。だって、お父さんがいない上に、お母さんまでいなくなるのは甥っ子がかわいそうだと思ったから。それまでは料理が全然できなかったけれど、病気がちな甥っ子のために食事をすべて手作りしました。甥っ子が高校を卒業するまで、面倒をみたんですよ。
甥っ子が高校を卒業した後に、父がうちにきて「もうお前は自分の人生を歩みなさい。もうお前の役割は終わったよ」と言ってくれました。
実はそのころ、下の息子も預かってほしいとジョセフィーヌ姉さんから頼まれていたのです。だけど、ダディはもう面倒をみるのはよしなさいと言ってくれました。姉のおかげで、私は大学に行くことができたけれど、もう十分その貸しは返しているよとダディは言ってくれました。

 

ジョセフィーヌ姉さんは親としてキチンとしていないと思いましたね。子どもの将来を何も考えていないのです。
いつも過保護な態度に私は納得できませんでした。
私は学校もサボらせないようにしましたが姉は子どもを甘やかそうとしました。少し熱がでたくらいですぐに学校を休ませようとしたり。私は男の子だから甘やかさないように、また自分の子どもではないので気を配って育ててきました。
そのうち、姉が、お金があるから自分で育てると言い始めましたが、次から次へと新しいボーイフレンドを作っている彼女に子どもが育てられるのか、私は信じられませんでした。お金は大事かもしれませんが、日本からお金を送ってくるだけで自分の息子をちゃんと育ててない。
私は大学を卒業してからは自分で稼いで甥っ子を育ててきました。
一緒に住んでいた私の彼も、まるで実のお父さんのように甥っ子を自分の子どものように可愛がってくれましたね。バスケットボールで一緒に遊んだり、車の磨き方を教えたりしてね。
私たちは実の親のようでした。
PTAに行ったり、問題が起こったら学校に駆けつけました。今大きくなった甥っ子は、本当にしっかりしていて思いやりがあり優しい人になってくれたと思います。よその人も、私が育てた子どもたちがしっかりしていると褒めてくれます。

シルエット 3人

 

フィリピンでは、海外に働きにでて子どもを親戚に預けることが珍しくないけれど、子どもにとってやっぱりそれはどうかなと思いますね。

 

▶︎File.2-4 転職を繰り返し渡米 へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。