File.5-2 学生時代

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.5>コラゾンさんの場合

学生時代

 

勉強は好きでしたね。特にハイスクール時代は充実していました。大学にも進学するつもりでした。
フィリピンじゃ当時、学校って、当たり前に行けるものじゃなかったんですよね。家族、家計さえ安定していたら、夢を叶えることができたかもと思います。

 

小学生のときは、シスターだった母方の叔母の勧めでお金持ちの学校に行きました。カトリックスクールです。叔母さんには可愛がってもらって、よく家に遊びにいっていました。一時、私もシスターに憧れたほどです。私は成績が良かったので、叔母は私をタダで行かせてあげると後押ししてくれました。確かにほとんどタダだけど、本とか色々なものにはお金が必要だった。
勉強以外の面が大変だった。クラスメートはお金持ちばかりで貧乏な私とは友達になってくれなかった。一応友達はできたけれど、少なかった。カバンとか身の回りのものが貧乏くさいと言われ、よくいじめられました。本をとられたり、落書きされたり。
母はあまり私に贅沢させてくれなかった。父も家にお金をちゃんと入れなかったし。お金持ちの子とは違う。可愛い靴、カチューシャ。私にはなかった。制服は1セットしかなかったので、母はしょっちゅう洗っていた。
でも、いじめられても、私は負けなかった。

可愛い持ち物

 

小学校を卒業する直前、母はサウジアラビアのリヤドへ出稼ぎに行ったんです。お金を稼いでなんとか自分達の持ち家が欲しいと言って。父方の祖母や親戚に馬鹿にされるのが悔しかったんです。家があったらリスペクトされるから。
父は母がいないものだから、毎晩家にいなかった。私たちに食事だけ与えたり、お金をポンと置いて出て行ったりした。私も隣に住む友達の家を頼ったり、大家さんの子どもと友だちだったので、そこに泊まりに行ったりして家にいなかった。妹を連れて行くこともあった。妹は父の家族から私よりも歓迎されていたので、そこに預けられたりもしました。妹は大好きだけど、そんなことでやきもちをやいていじめたりもしました。向こうも強い。昔はよく喧嘩していました。私は意地悪だし、妹は負けん気が強いし。でも大好きな妹です。
サウジに出稼ぎに行った母は手紙をくれました。たまに姉も家に帰ってきて私たちの面倒を見てくれました。服を一緒に買いに行ったり。
ところが母が1年も経たずに仕事を辞めて帰ってきたんです、突然。本当は2年契約だったらしいけれど。稼いだお金は少ないけれどちゃんと持って帰ってきた。

 

母は、お金は何かしないとすぐなくなると言って、金貸しの仕事を始めました。非公認だけれど、当時のフィリピンでは事実上OKだった。貸した人が逃げてしまったら、取り返せる法律的な保護はなかったけれど。
家のすぐ近くに市場があって、そこで魚や肉を売っている人たちがお客さんだった。最初はちょっとだったけれど、だんだん金額が大きくなっていった。いつも家に人が来ていました。毎日ちょっとずつ、例えば50ペソずつとか借りにきたり、2000ペソ借りたら100ペソを何回返済とか計算する。集金にも行っていました。借り手は、お店の店主だけじゃなく、家庭の人もいました。奥さん、独身女性、いろんな人が母のところにやってきました。
母は市場の有名人になり、商売は繁盛していました。家をローンで買えるまでになりました。

 

途中で父がサウジに行って、金持ちの家のドライバーとして働きました。給料はフィリピンと変わらないくらいで、安かったそうです。それで母はまた怒った。飛行機の見送りの時に、なんでそんな安い給料で!と。普通は、出稼ぎの家族の見送りはもっと涙すると思うけれど。今じゃ笑うけれどね。
大人になって父から話を聞いた。なんで出稼ぎに行ったのと聞いたら、家にいたくなかったから給料なんてどうでも良かったんだと。お母さんは口うるさいし、殴るし。父は殴り返さなかったけれど、家を出たって。今だから言えること。でも、なんでそうなったかもわかる。

暗いベッドルーム

母は父が好き過ぎた。父は家にいたがらないし、異父兄は悪いことばかりする。異父姉も早く結婚して出ていった。母もストレスがいっぱいで苦労したと思います。
母は、1993年に倒れて、95年に50歳で亡くなった。今思うと、だからそうなったんじゃないかな。あまり幸せにならんかったかな。まだ生きていたら、好きなことをさせてあげたかったな。

 

小学校卒業後、ハイスクールは公立学校に進学した。私立学校はいやだと母に泣いて頼んだ。やっぱりどうしても馴染めなくて。叔母は行かせたかったようで、途中でもったいないと言いましたが、母が説得してくれたんです。
ハイスクール時代は同じ生活レベルの人と一緒にいられたから楽しかった。お互い苦労がわかるし、少しずつお金を貯めて好きなものを買うという感覚も共有できました。友だちといられるのも楽しくて、毎日学校に行きたいと思いました。一番戻りたい時代かもしれません。何の責任もないし、大人でもないし子どもでもないし。
クラブ活動は料理クラブに入りました。料理が好きなので楽しかった。母はいつも料理を作ってくれて、何でも美味しかった。母から料理を教わった。ああいう母だったけれど、家はキチンとしていた。
その母が脳梗塞で倒れ、周りに誰も助けてくれる人がおらず、結局4年生の時に退学しました。いつか復学するつもりでしたが、とうとう叶わずじまいになりました。

 

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<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。