File.1-14 貧しかった子ども時代3

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.1> けいちゃんの場合

貧しかった子ども時代(前回のつづき)

 

●年齢を偽って就職

私は学校を15歳でやめて、就職しようとしました。
フィリピンの法律では18歳未満は働けませんでしたので、18歳と偽りました。

ある工場で面接を受けたとき、たまたま知り合いのお姉さんがいて、私を見つけて「あなたを知っているよ。ここでなにしているの」と言われました。
私は小柄で、椅子に座っても足が地面につかないほどでしたので、面接官も怪しいと思っていたようで、私に向かって「お母さんにお使いを頼まれた子どもみたいだ」と言いました。
もうばれてしまったと思い、私は泣き出しました。
面接官は、なぜ就職しようと思ったのか、なぜそんなに早く働きたいのかと、尋ねました。
私は、家計を支えるために働かなくてはいけないことを面接官に言いました。

 

私の父は一時フォード・モーター(アメリカの自動車メーカー。1973年のフィリピン政府の乗用車国産化計画により、欧米の自動車メーカーが進出していた)に就職しましたが、当時はマルコス大統領時代だったので、まもなくフォードも撤退してしまい(政治社会の不安により外資が一斉に撤退した)、父は仕事を失ってしまいました。

 

じっと私の話を聞いていた面接官は、採用してくれました。このように、規制はあってもまだ緩やかな時代でした。
その会社はアメリカのエレクトロニクスの会社で、私が就職した工場はLEDを作っていました。
就職したおかげで、きょうだいたちを学校へいかせることができました。
私の給料は当時としてはよいほうで、月給に加え、クリスマスボーナスと13ヶ月分のボーナスをもらえました。

 

エレクトロニクスの会社では、とても楽しく働きました。同僚みんなに、年下なので可愛がってもらいました。
会社の周年パーティーや、クリスマスパーティなどを、芸能人を呼んで大々的に行っていました。
大きな会社で、3交代のシフト制でした。私のシフトだけでも20人のグループで、な同じよう規模のグループが
たくさんありました。エンジニアも500人程度はいたと思います。
働いている人数は女性のほうが多かったのですが、技術者は男性が多かったです。
私の仕事は、LEDの配線をスコープでみながらエポキシを使ってつなげる配線作業でした。
朝6時から午後2時で、夜勤もありました。シフトは何ヶ月間かで交代になりました。

 

もらった給料は全部母に渡していました。その給料で、家族6人を養うことができました。
きょうだい(妹2人弟1人)も学校にいけました。私の給料日は、きょうだいたちも楽しみにしていました。
かれらの楽しみは、私のお土産でした。チキンやハンバーガーをお土産に買って帰っていました。
きょうだいは、給料の日には、窓から首を伸ばして私の帰りを待っていました。
たまに交通渋滞で遅くなったら、きょうだいたちが寝てしまっているのに、母が起こして、私が持って帰ってきたお土産を食べました。
ある時、朝になったら、寝ぼけて覚えていなかったようで、お土産を食べてないと言い張ったきょうだいもいました。
妹は2歳下、その下の妹はさらに2歳下、その4つ下に末の弟がいます。きょうだいは仲がよかったです。
私は家にいませんでしたが、妹たちが家事をしてくれていました。私は外で働いていたので家事がなにもできませんでしたが、妹たちはお母さんから教えてもらっていました。

この会社で2年が過ぎたころ、当時の政治経済の影響で、会社を閉鎖することになってしまいました。
私は仕事を失いましたが、すぐに新しい仕事先が見つかりました。移動式のハンバーガー販売(屋台)のミニッツバーガーという会社でした。クローバーチップスという、フィリピンで販売されているお菓子も作っていました。
ただ、そこは半年しか契約できませんでした。
半年の契約が終了したあと、別の仕事を探そうとしましたがなかなか難しかったです。

 

なんとかきょうだいには学校へ行かせるために稼がなくてはという思いで、自分の家の前でサリサリストア(自宅の一角で雑貨を販売する店舗)を開くことにしました。18歳の時です。
サリサリストアは3年くらい経営しましたが、しだいに周りに次から次へと大きなお店ができて、経営が苦しくなりました。
小さいお店なので、値段を安くできず、価格競争に勝てず、閉店を余儀なくされました。
私はまた別の仕事を探すことになりました。

 

21歳の時、別のエレクトロニクスの会社に勤め始めました。中国の会社でした。
仕事は以前とまったく違っていました。私は倉庫で必要な部品を用意する担当でした。
倉庫で一人だったので、暇なあまり眠たくなって、耐えられなくなってしまいました。
結局、体が慣れなくて、半年勤めて辞めました。
初めて勤めた会社よりは少なかったのですが、給料は悪くなかったです。
母は焦って働かなくてもいいよと慰めてくれました。
私のすぐ下の妹も大学生になっていて、彼女ももう少ししたら卒業だし、アルバイトもしているので学費は大丈夫だからと。
でもその下の妹や弟もいたので、稼がないといけないと思いました。
そこで再び新しい仕事を探しました。

 

今度は鉛筆を作る会社に面接しに行きました。モンゴルという鉛筆会社です。
採用されたのですが、実際の仕事はその工場の隣にある、別の小さい工場で釣り針を作る作業でした。
面接のときは鉛筆を作る仕事だと説明されたのにもかかわらず、私に与えられた仕事は釣り針に糸を結ぶ仕事でした。
針が指に刺さって大変でしたが、仕方がないと思って仕事しました。
私にはそれしかできないと思い我慢しました。
結局、そこで3年間勤めました。
給料はあまりよくありませんでしたが、弟や妹たちが学校へいくのに必要だからと働かないといけないと思いました。
妹2人が、卒業したら弟の学費を助けてくれると言ってくれました。
私は24歳まで働きました。

 

▶︎File.1-15 父への憤り1 へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。