<サンパギータFile.5>コラゾンさんの場合
ダンサーになった経緯
朝、私がいつものようにミキサーで母の食事を細かくし、口元にスプーンを持っていったら、いつもと違う顔色で冷たくなっていた。ショックだった。
そのとき、父はどこにいるのかわからなかった。
初めて日本に来たのは2001年かな。はっきり覚えていないけれど。今44歳。来月で45歳やね。最初はタレント(興行)ビザでダンサーとして来日、一応プロダンサーでした。
今、こうして話していると、当時のことを思い出してきました。
私が高校生、15歳のときに、母が突然脳梗塞で倒れました。そのとき父はサウジアラビアに働きに行っていて不在だったので、母と妹と私の3人で暮らしていました。母は悪い商売、金貸しをしていたので、そのストレスもあったと思う。すぐ治ると思ったけれど、どんどん悪化。最初の半年はICUにいて、1年間ほど入院しました。
母がお金を貸していた人のところに行って、お金を返してもらってきたけれど、病院のお金に消えました。私は学校に行って帰りに病院に行ってというのを、毎日繰り返しました。異父姉は結婚して家を出ていたので助けてもらえなかった。5歳下の妹は小さかったので病院に行けませんでした。病院の支払いで借金だらけになって、病院からは、退院して、と言われました。
母は寝たきり、介護の必要な状態でした。連れて帰るにも、家は賃貸でお金がなくて家賃も払えません。頼みの父とは連絡がつかなくなっていました。母の手術の時には一時帰国したけれど、それっきりでした。
父のために母がサプライズで買った家はほとんど完成していたのに、引き渡し基準の価格までローンを返済できていなかったので、結局入居できなかった。安いところに家を建てたので、親戚の家からも遠く、その家に住むことはできなかったんです。私もまだ15、16歳。今住んでいる家の家賃も払えない。
もう一人の母方の叔母が親切にも私たちを自宅に住まわせてくれました。叔母の家も子どもが7、8人いました。従兄弟もみんな優しかった。そこでお世話になった。すごくありがたかった。
「お父さんはなにしてるんや」と、叔母の夫は怒っていました。子どもも多く、お金持ちではなかったので、私たちの存在は重たかった、と思う。いろんな意味で。
でも叔母さんはとてもやさしかった。愛ですね、母への。私たちのせいで、叔母たちは夫婦喧嘩をよくしていました。私たちはその喧嘩を聞いていたけど、どうしようもなかった。叔母の夫は「なんで(姉の家族を)うちに入れるの」と文句言っていたけれど、叔母は「私の姪をどこに行かせられるの」と、旦那さんを説得したんです。
叔母と一緒にいろんなところに頼みに行きました。初めはボランティアの人に、薬とかオムツ代は助けてもらえたけれど、もう母の状態がよくならないとわかると、助けてもらえなくなった。サポートの窓口に行くと「お金ない、お金ない、もう終わり」って冷たく追い払われました。
結局、私たちは叔母の家を出ました。母の弟で、独身だった叔父の家に行ったんです。叔父は無職だったので、私たちは食べていくことができなかった。
仕方がないので、私は学校をやめました。母の世話もあったし、人にもお金を頼れなかった。妹に母の世話を頼んで、私が働くことにしました。17歳でしたが、18歳と偽装して私はデパートで店員として働き始めました。
それからしばらくして母は亡くなりました。退院から1年あまり経った頃でした。
母の葬式や、いろいろなことが終わって、次にどこに住むか問題になりました。叔父は精神的におかしく、母が亡くなって一緒に住むのは難しかったので、つぎは父の実家に住まわせてもらうことになりました。
妹と2人でほんの少しの荷物を持って引っ越すと、もともと倉庫で窓がなかった部屋があてがわれました。持っていた家財道具は病院代を支払うためにすべて売ってしまったので、もうほとんど荷物らしい荷物は残っていなかったんです。母が愛用していたヴィンテージのミシンも、母がお金を貯めて父のために買ったテレビも、なにもかも。
私はデパートの仕事を頑張りました。妹にはなんとか学校を続けさせたかった。妹はまだその頃11歳か12歳で、やめさせるのはかわいそうだった。
借金は残っていましたが、結局返しきれませんでした。逃げたというか。仕方がなかった。返せなかったのは数万ペソかな。覚えていない。母のICUの費用が高かったからね。
父がようやく帰国して、お金をもらえるようになったけれど、私が学校に戻るには足りなかった。父は、よく女と遊んでた、いい加減な人で。サウジアラビアで働いて貯めたお金がすぐになくなったのを、父はなんでかわからない、と開き直ったんです。
私は「学校に行きたい」と父に訴えました。父は「ごめん、サウジに行ってもっと働いたら、学校行かせるから」と言ったけれど、ずっと遊び回って、家にいない。出稼ぎでまとまったお金を持って帰ってきたので、悪い友達に誘われたんでしょう。独身だったし。
男は弱いですね、すぐにそっちにいくんですね。私と妹のことじゃなくて、自分の楽しみを優先させたんです、父は。
奈良雅美(なら・まさみ)
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。