<サンパギータFile.5>コラゾンさんの場合
日本に行く決断
たまりかねて私は18歳のとき父の実家を飛び出し、知り合いとルームシェアして暮らしました。デパートのアルバイトの仕事を半年ごとに契約更新しながら、あちこちのデパートを転々としました。最初は子供服の担当、次にジーンズ売り場、安売りコーナーも担当しました。デパートの仕事は楽しかった。
デパートの警備員をしていた彼と、そこで出会いました。一緒にパーティに行って、私は初めてお酒を飲んで、家に帰るのが遅くなりました。私の住んでいた住宅に門限があったため部屋に入れなくなって。彼から休めるところがあると紹介されてついていったらホテルだった。別々の部屋かなと思ったら、襲われました。無理矢理でした。騙されたと思いました。酔っ払ってふらふらだったし、私は痩せてガリガリ、力もありません。彼は大きい体。抵抗できなかった。
私はなにもわからなかった。妊娠してしまったけれど堕したくない。行くところもない。シングルマザーを保護してくれるところがあったけれど、産んだら赤ちゃんをとられると聞いて、やめた。いやでした。だから、古い考えかただけど、彼のことが嫌でも結婚しないといけないと思っていました。つわりがひどく、デパートの仕事を続けられなくなりました。彼のことは好きではなかったけれど、子どもを堕すことは考えられなかった。彼とは結局結婚はしませんでしたが、2年ほど一緒に暮らしました。
私にはめっちゃ仲が良かった友だちがいました。彼女は、私が子どものころ家族で住んでいた家の大家の娘さんでした。そのつながりで、大家さんの親戚で、日本男性と結婚して熊本で暮らしているという女性に出会ったのです。
彼女は私に「あなた、シングルマザーで大変だよね、どうするつもりなの」と尋ねました。私は「近所の市場で安い給料で働いている」と言い、「私も日本に行きたいです」って冗談ぽく言ったのです。彼女は可愛いハーフの子どもを連れていました。彼女は「じゃあ行けば。私が紹介するわ」と言いました。私が「お金がない」と言うと、彼女は「お金はいらない。毎週50ペソもらえるよ」と言いました。
以前から日本には関心があり、母が亡くなった後、実は日本に行くためのオーディションを受けたことがありました。だけど父方の親戚からも母方の親戚からも反対されました。日本に行ったら、体売ることになるんやでと言われて。それやったら私も嫌やわと思い、オーディションには受かっていましたが、断りました。当時、日本に行って働くと結局売春することになると信じられていました。しかし、彼女は、それはない、するかしないかは自分しだいだと言いました。日本では無理やりさせられることはないと。自分の給料で満足するなら、しなくてもいい。彼女の説明を聞いて安心しました。すぐ「お願いします」と私は言いました。
私は彼女にUエージェンシーという会社を紹介してもらい、社長のUさんの家に住み込んでレッスンを受けることになりました。Uさんの奥さんはフィリピン人で、家はマニラ市内にあった私の家からバスとジプニーを乗り継いで30〜40分ほどのところにありました。住み込みだと食事も家賃も全部タダだったから、それがありがたかった。それに週に1回50ペソもらえた。それは実家に帰る交通費のようなものでした。まあ、結局、あとで給料からそれも引かれているんだけどね。息子は妹に預け、週末だけ実家に帰りました。
その当時はARBの免許(Artist Record Book:芸能人登録手帳)を取らないと日本に行けなかった。だから免許を取れるように、クラシックバレエとか、踊りを基礎からちゃんと習いました。免許を取らないとオーディションは受けられないから。
一緒に住んでいた訓練生はめっちゃ多かった。50人ぐらいはいたかな。お金が貯まった人はひとり暮らししていました。ベテランさんはお金ができたら出ていきました。日本に行ったことない人はだいたいそこに住み込んでいました。住み込みは、お金がない人が優先でした。何回か日本に行ったことがある人は、お金があるから自分の田舎に帰るんです。
住み込みをしていたとき、先輩や先生の服を私が洗って小遣いをもらっていました。私は住み込んでいる限りは、食費はかからないし50ペソもらえる。でも息子の食費はない。私に洗わせてとお願いして、1人1週間100ペソぐらいだったかな。たまに先輩がチョコレートをくれてね。それを週末家に帰るときに息子へのお土産にしていました。洗濯で稼いだお金は、息子のミルク代にと妹に渡した。少しでも稼げて嬉しかったのを覚えています。今思い出すと、よくそんなことができたな、って自分でも思う。人のおかげもあるけれど。当時20歳だった。
それまではダンスはしたことがなかった。むしろ歌の方が好きだったので、まさかダンサーになるとは思わなかった。でも生きるためにね。
ダンスは難しかった。先生は厳しかった。物を投げつけられたり。今はそんなことしたらダメだけれどね。笑顔を忘れたり、振り付けができなかったら、一からやり直し。3曲目なのに、一からやり直しよ。1人でも間違ってもやっぱり全員で最初から。しょうがないね。私たちのダンスが先生の評価にもつながるので、毎回テストされた。あまりにも厳しくて諦めようと思ったこともあった。
でも14人の仲間がいたのでサポートし合えた。誰かが挫けて辞めようとしたら、みんなで励ました。私も何度も自分が向いていないと思い知らされたけれど、みんなが励ましてくれた。1人か2人かは途中で辞めたし、オーディションしだいだから全員が同じクラブに行くわけではないけれど、仲間の絆は強かった。今でも時折その時の仲間と連絡し合っています。
修行時代は、辛かったけれど楽しかったです。ダンスでだんだん体が動くようになって、自信もついてきて、私にはもうこれしかないと思うようになりました。デパートでのアルバイトだと、最低賃金で、交通費なし。それでは食べていけない。
ダンサーは1人じゃなくて2人〜4人で、だいたいグループです。オーディションで選ばれた人がグループになり、時には違うエージェンシーのタレントと一緒になる場合もある。3ステージ分をこなせるように、だいたい2、3曲、練習していました。
来日前に、日本語と文化をほんの少し勉強しました。1時間か2時間ぐらい。先生がいて、テストもあった。海外で働くには、POEA(フィリピン海外雇用庁)の許可が必要で、そのための試験を、フィリピン政府が法律に基づいて実施しています。もっと昔は何も免許がなくても行けましたが、日本の法律が変わってから厳しくなりました。本当にダンスの専門家がジャッジします。何回も落ちる人もいますが、諦めない限り受験できます。私は1回で受かった。ギリギリだったけれど。
ダンスの修行時代は楽しい経験も辛い経験もありました。訓練は厳しかった。2度としたくない。
奈良雅美(なら・まさみ)
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。