File.5-9 日本定住後の仕事

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.5>コラゾンさんの場合

日本定住後の仕事

 

いつか、小さくてもいいからフィリピンで商売をしようとお金を貯めています。
息子と一緒に商売しようかとか、家族で一緒にできることをとか。別居している旦那さんも、よかったらフィリピンに一緒に暮らすとかもありだし。
これからどうなるかわからないけど、とりあえずもうちょっと頑張ろうかな。

 

夫と一緒に暮らしていたとき、彼に「働いて」と言われて、タレント時代に働いていた神戸のお店Cで再び働き始めたんです。そのころはもう興行ビザで来日した人ではなく、日本に住んでいるフィリピン人ばかりがアルバイトで入っていました。
あるときお客さんに、「この店にあなたはもったいない、給料安いでしょ。三宮に行ったら」と言われたんです。でも三宮はよく知らなかった。もっと給料をもらえると言われて紹介されて行きました。
Tは、いろんな国の出身の人が働くインターナショナルなショーパブでした。タレントはいたけれど、フィリピン人ではなく、ロシアやウクライナ、ルーマニアとか東欧系の人たちが多く、ポールダンスやショータイムがありました。オーナーが中国人だったから中国人もいたし、とにかくいろんな国の人がいた。私はダンサーではなく接客だけ。楽しかった。広いお店で、女の子だけで常時20人以上いましたね。私はそこに4年いました。

グラスに入ったカクテル

タレントが来られなくなったら、給料は安くなるし罰金もある。同伴できなかったら罰金。同伴できなかったら1回に5000円払うんです。同伴しても2000円しかもらえないのに。頑張れる時は頑張るけれど、どうしようもないこともある。稼げないのに、罰金を払うのはおかしくないですか。
だから辞めて、深夜3時まで働けるとブラジル人の友達に誘われた、日本人が経営する小さいスナックKに移りました。そこも4年間。3時までの給料しか出なかったけれど、サービス残業でお客さんがいる5、6時までいました。定時の3時までで終わったことはなかった。だけれど、3時までの給料が欲しかったから、残業があっても我慢しました。なぜかというと、そのころフィリピンに家を建てたから、お金が必要だったのです。だいたい1時までのところが多いから2時間プラスは大きかった。

 

夜はスナックで働きながら、昼間は介護の仕事もしていました。子どももいないし、夫は相手してくれないので、昼も夜も働いた。フィリピンにいる家族合わせて5人の面倒をみるため、仕送りしていたから、1つの仕事だったら何も残らない。
介護の勉強するとき、夫は反対した。日本語がわからないくせに、できるのかと言われました。私は腹が立って、自分でお金を払って介護の学校に行きました。一生懸命にひらがなとカタカナを勉強しました。3ヶ月学校に通いました。彼は卒業式も一緒に行ってくれなかった。2級を取ってから、すぐに訪問介護の仕事を始めました。普通の介護施設でも仕事しました。週3回8時間、3年半以上働いていました。
永住権取れたのも介護の仕事をしていたからかな。だって入管から何の仕事しているのかとか、週何回、何時間働いているのかとか、確認の電話が職場にかかってきたんです。子どももいないし、夜の仕事は言えないし、介護の仕事をしていなかったら、取れなかったかもしれない。
これほど働かなきゃいけないと思ったのは、フィリピンの家族が大学に行くようになって、もっと大きなお金が必要になったからです。子どもたちが小さい頃は月に3、4万円ぐらいでしたが、この時は11、12万とか送っていました。学費は別でね。父の薬代も入れて。私以外誰一人働いていなかったので、なにからなにまで私が背負っていました。

 

Kで働き始めたとき、体が無理だなと思っていったん夜1本にしていましたが、別のスナックNに移ったときに夜は1時までにして、昼間の仕事を再開。昼間はホテルの37階のレストランでウェイトレスをしました。ですがコロナのため4ヶ月でリストラされ、派遣会社から観光船のレストランに異動になったのですが、通勤が不便で辞めました。コロナで夜も稼ぎが悪くなったので、果物を箱詰めするラインの仕事を週3回、1年間。でも向いていなくて、介護付き高級施設の清掃とかベッドメイキングの仕事を始めた。それも1年。社長と考え方が合わず辞めました。今はホテルの清掃とベッドメイキングをしています。

ホテルのベッド

 

本当はフルタイムの仕事をしたいんです。だけど、私も悪い。昼間の仕事は安いので、なかなか続けられない。1年ほどしか続かない。フルの仕事が欲しい。夜の仕事を辞めたいんです。もう44歳だし。体力も精神もしんどい。ホテルの仕事は安定しない。コロナだってまだどうなるかわからないし、出勤しなくていい、って言われたらおしまい。
とりあえず今の仕事は頑張りたいけれど、いつか正社員とか安定する仕事に就きたいと思っています。

 

▶︎File.5-10 私の感じた日本とフィリピンの違い へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。