<サンパギータFile.5>コラゾンさんの場合
息子のこと
でも、やっと息子と再会できたとき、私と息子は言葉が通じなくなっていました。私を母ともわからない様子でした。
愕然としました。
最初にオーディションに受かって岐阜に行くことが決まったとき、妹に子どもを預けようとしました。だけど、当時妹が一緒に住んでいた父方の叔母に、子どもはよく泣くからだめだと断られました。仕方なく、息子の父親に子どもを預けたら、彼は自分の遠い田舎の親戚に子どもを預けてしまった。私もそのときはしかたがないと思い、同意した。彼が渡してくれると約束したので、私は彼宛に息子の養育費と妹や父へのお金を送金し続けました。
するとある時、彼の親戚から、お金をもらっていないという手紙がきたのです。妹にも確認したら、やっぱりもらっておらず、彼は失くしたと言っている、ということでした。なぜときいても「わからない」と。彼は警備員として働いていたからお金は持っていたはず。怪しいなと思いました。彼は私に、お土産、くつ、宝石が欲しいと手紙を送ってきた。お金の使い方も怪しかった。だから、それ以降はお金を彼にじゃなく、父方の叔母に託しました。
彼とは喧嘩になった。彼は自分のことを信じていないなと怒った。気に入らないと。彼はお金をそれぞれに渡していると私には説明していたけれど、実際はギャンブルに使い込んでいたんです。その証拠を見せて問い詰めたら、彼と喧嘩になり、別れました。
でも、私、あほやった。子どもを彼の田舎に預けたままだったんです。私は失敗した。彼とは別れていたので、彼に私の子どもを返してと言ったら、一緒に迎えにいこうと言われたけれど、どうなるかわからず怖かったので拒否しました。彼の田舎はネグロス島(フィリピン中部のビサヤ諸島にある島)でした。私は行ったことがないし、怖かった。電気も通ってないところだし。私は彼に田舎に行く交通費を渡して、連れてきて、と言いました。すると彼は、私が自分の元に帰らないなら、息子を戻さないといったんです。お前は息子とは2度と会えないと言われたんです。
私ほんまにあほやった。子どもを取り戻してから別れたらよかったのに。考え付かなかった。住所はわかるけれど、行き方がわからなかった。途中、馬に乗らないと行けないところもあり、私には一人で行けないところだった。
それでも何回かお金を送った。俺とよりを戻したら会えるからと言われたけれど。それは無理だった。1、2年そんな状態だった。その間、泣きながら仕事のため日本に行っていた。何度も彼に息子を探して連れてきて、お願いと言ったけれど、知らんと言われ続けました。
父に、賢く考えようと言われました。「子どもを返して」と彼を追いかけるのではなく「子どもは諦める」って言ってみたら、とアドバイスをくれた。私はラグナ州にある彼の職場に行って、彼に「これから私は自分の人生を新しく始めるから。いくら頼んでも返してくれないなら、もう息子を頼むね。息子がかわいそうだと思わないの。自分はいい生活をしているのに。これからはちゃんと息子にもいい生活させてあげてね。私はもう忘れるようにする」と言いました。すると彼は、しばらく黙ったあと、息子をマニラに連れてくると言ったので、もう一度お金を渡しました。すると、やっと彼は息子を連れてきたんです。息子に会うのは2年半ぶりで、もう5歳近くになっていました。
悲しかったことに、息子は私のことが分からなくなっていました。息子と言葉も通じなかった。彼が話すのは、ネグロス島で話されていたビサヤ語。私はビサヤ語がわからない。再会できたとき、私は嬉しくて泣きました。でも複雑な感情も込み上げてきました。自分も悪いことをしたと心から思いました。自分を責める気持ちと、嬉しい気持ち。
息子には、フィリピンに帰るたびにおもちゃを買っていました。いつか会えると信じて。やっと会えたけれど、言葉は通じないし、私のことを誰かわからない、という様子に驚き、悲しくなりました。
マニラで小さいワンルームの家を借りて、まだ独身だった妹と私と息子とで暮らし始めました。妹は遊び好きの子だったから、真面目に学校に行かず、退学した。私は妹に学校を再開させたかったけれど、ハイスクールも卒業できなかった。そのうち妹に子どもができ、妹と妹の夫と妹の子ども、私と私の息子とで暮らし始めた。その後お金を貯め、もう少し大きい家に引っ越しました。
私は息子の言葉を知るために、ダンサー仲間でビサヤ語を話す人がいたので、その人のところに息子を連れていって通訳してもらったり、ビサヤ語を教えてもらったりした。でも、妹に「そうじゃなくて、息子にタガログ語を教えなきゃ」と言われた。だけれど、母としては少しでも早く息子と会話したかったんです。日本で働く私に代わって、妹が息子にタガログ語を教えてくれ、息子は少しずつ話せるようになりました。
でも、息子は最初、ずっと泣いていた。ホームシックになってね。私のことが誰かわからないし、私がママだよって言っても、目をじっと見るだけ。ネグロス島とは食べるものも違うからか、ハンバーガーよりもシンプルなパンを好んだり。私は心が痛かった。
それでも、再会してしばらく経ち、日本に向かう飛行機に乗るために空港で息子と別れる時に、私と離れるのを嫌がって息子が泣いたのを見たの。胸がいっぱいになった。このことで息子との距離が近くなったのを感じた。当時、日本にいる私と息子とのやりとりは、手紙か、声だけの電話。携帯電話はまだ贅沢な時代だった。私の給料は当時月400ドルでとても携帯電話を持つ余裕はなかった。それでも、息子の存在のおかげで、私は日本で頑張ることができました。
息子は今フィリピンで暮らしています。
一度、彼が16歳の時、日本で3年間のビザ(永住者の配偶者等)を取得して私と一緒に暮らしました。彼はフィリピンでハイスクールを修了してはいたけれど、日本とは制度が違うのでもう一度高校に行かなければいけなかった。来日したのが学校の始まる4月じゃなかったので、それまでの間日本の専門学校に行かせていたんです。しかし、結局ほとんど私が家にいなかったので、いつも留守番ばかりの息子はホームシックに耐えられず、自分からフィリピンに帰らせてと言いました。また、彼はエンジニアになりたいから、フィリピンに帰って大学に行きたいとも言っていたので、帰らせました。結局、1年ほどで彼は帰国しました。
彼はフィリピンで大学を卒業して自立し、今25歳になりました。彼とはメッセンジャーでほぼ毎日ようにやりとりしています。息子とは色々な話をします。私の仕事のこととか、彼の仕事の悩みとか、映画の話とか、彼女の話とか。でも大きくなったからもう安心。ちょっと寂しいけれど。あはは。
今まで、息子のためと考えて生きてきたけれど、これからどうやって生きていこうか不安になります。
奈良雅美(なら・まさみ)
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。