<サンパギータFile.2>マユミさんの場合
まさか私が
自分の意思は強固だし、女性運動もやってきたのだから。
何より、彼は私を愛しているから大事にしてくれる。夫から暴力を受ける妻、なんて私には考えられない。
私はそう確信していました。
ところがドメスティックバイオレンスは自分のすぐ後ろに忍び寄っていました。
パパはもともと高校の先生をしていましたが、家業である靴のバネ(ヒール)を作る工場を継ぎました。靴工場は自分のやりたいことではなかったと彼はいつもこぼしていました。
そうこうしているうちに思わぬ出来事が起きました。リーマンショックです。8億円も借金が膨らみました。私たちが住んでいた住居も持っていたビルも売却しなければならなくなりました。パパは私にはなにも言いませんでしたが、会社の取引は激減していました。
そのせいか酒の量が増え、酔って私に暴力をふるうようになりました。暴言も吐くようになりました。
私は会社の工場で子どもを背負って働きました。彼は職場では丁寧に教えてくれるけれど、家で暴力をふるいました。そもそも意に沿わない仕事だったせいもあるかもしれません。
私はわけがわからずにいました。
ある夜、お好み焼きを作ったとき、私はかつおぶしのパックを全部使い切ってしまいました。食べるときにパパに「おかかはないのか?」と聞かれて、私が「ない」と答えるとすごい勢いで怒りだして、「食べなくていい!」と吐き捨ててお好み焼きを全員分ゴミ箱に捨ててしまいました。
パパはおかしくなってしまった。それでもそのうちに変わるだろうと私は希望を持っていましたが、現実はそうじゃなかった。どんどんとエスカレートしました。
私はストレスが溜まっていきました。パパはなぜこうなってしまったのだろう、リーマンショックだからかななどと、自分で納得できる理由を探していました。それは自分の心を守るためでした。
でも、どうしたって暴力をふるわれる理由は見当たらない。逃げたい。死にたい。飛び降りたい。なんでこんなことになったの? なんでこんなに殴られるの? なんでパパはこんな顔になったの? なんで愛する人に、自分の手でこんなことをするの? 終わらないクエスチョンばかりでした。
ある晩、熱を出した息子のケアをしていた私に暴力をふるい、そして、息子にも暴力をふるおうとしました。
私は、もうダメだと思いました。
警察に駆け込みました。私はガイジンだから言葉の助けが必要だったので、警察に姉を呼んでもらいました。姉から紹介を受けて、外国人女性の支援団体のAWEP(アジア女性自立プロジェクト)のMさんに翌日電話で相談しました。夫から逃げたいと。
私は息子とシェルターに保護されました。
私は離婚を決意したけれど、その後の離婚調停が難しかった。夫は離婚しない、離婚するなら息子は取ると言いました。「とことんやるよ」と夫は私を脅しました。夫は「息子を取る。あんたは仕事がないから養育できない」と言い張りました。私は確かに外国人で立場が弱いし、なにもわからない。夫は冷たく言い放ちました。
「息子は日本人だ。あんたの子どもではない」。
フィリピン領事館に行って相談すると、同じフィリピン人なのに非常に冷たい態度でした。DV被害者なのに、なんの心のケアもありませんでした。
私はすごく悩みました。夫のところに戻ろうかどうしようか。幸いにも別居して生活保護を受けることができましたが、まだ乳飲み子だった息子を抱え、家に一人でいるとストレスいっぱいでした。
将来どうなるのだろうか。戻ろうか。パパの言う通り、私はなにもできない。日本語も通じない。そんな中でどうやってこの子を育てていくのか。この子がかわいそうだ。私は日本の文化も知らない、何も教えられないので息子が馬鹿になる。
そう悩む私に、Mさんは何度も繰り返しました。
「戻らないでね、戻らないでね」。
私は、人には、パートナーから暴力をふるわれたらすぐに家を出たほうがいいとアドバイスしてきました。
自分が暴力をふるわれたとき、自分が活動の中で主張してきたことを実行しないといけないとふと思いました。このまま我慢すれば、自分の言ってきたこととやってることが合わなくなると思いました。
私は気持ちがグラグラでした。
それまで、自分は強い女だと思っていました。夫が言うように、確かに私はなにも知らない、確かに私は弱い、確かに何もできない、確かにこの子を育てるのは無理なんだ。そんなふうに思い込むようになりました。夫と別れたあとも何年もこの思いを引きずりました。
Mさんに、イベントで自分の体験を話して欲しいと言われたけれど、2、3年は語ることができませんでした。暴力のシーンをテレビでみたら、涙が出てしまいます。耐えられない。本当にセンシティブな状態になっていました。幸せがすごく遠く感じられました。何が悪いの? 私が悪いの? そんな感じでいつも死にたいほど考えていました。
その間も、私は夫を好きでした。本音では別れたくないと思っていました。夫と会うたびに戻ろうかと思いました。子どもが小さいから夫も息子を可愛がります。息子に、父親の存在を消したくない。家族を壊すことは想像できない。だけど、それでは自分の活動してきたこと、主張してきたことと矛盾してしまいます。
嫌でした。毎日嫌でした。自分が壊れていく。
▶︎File.2-9 ほんとうの気持ち、ほんとうに大事なもの へ続く
奈良雅美(なら・まさみ)
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。