File.2-4 転職を繰り返し渡米

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.2>マユミさんの場合

転職を繰り返し渡米

 

日本では学校を卒業したら定年まで同じ会社で働くのが「普通」ですね。でもフィリピンでは機会があればどんどん転職していくのは珍しくないです。私もいろんな仕事をしてきました。

 

大学を卒業してからしばらく銀行で勤めていましたが、銀行のバックヤードの仕事は人と会うことはなく、お金の計算ばかりでした。私は人と会って話をするのが好きだったので、自分には向いてないと感じていたのです。結局、銀行はやめることにしました。
その後、あるピザ屋で財務のマネジャーの仕事をしていたときに「知り合いが携帯電話の会社を立ち上げるので、人材を探している。あなたも面接を受けにいかないか」と友だちに誘われました。私はなんだか面白そうだと思い、思い切って面接を受けに行ったら採用されました。その会社では顧客サービスのマネジャーに就任しました。

 

そのうち、また別の友だちから「シアトルの保険会社でフィリピン人スタッフを探している」と聞き、応募してみたら採用されたのです。その営業所は、たまたま所長がフィリピン人でした。私がラッキーだったのは、前職の携帯電話会社が使っていた社内システムをその保険会社も使っていたことでした。それに、大学生のとき、保険会社でのアルバイトの経験もあったので、保険の仕組みをよくわかっていました。
アメリカに渡り、シアトルでは車の保険や火災保険などを扱う仕事をしました。とてもお客さんから頼りにされていましたね。

シアトル

あるときフィリピン人のボスから電話がかかってきました。「あなたはうちの会社の中で有名だよ。なんでそんなに顧客から電話がかかってくるんだい。あなたが詳しいって評判が届いているよ」と。私が「この仕事をやったことがあるからです」と答えると、ボスは感心していました。お客さんにわかりやすく説明できるので納得してもらいやすい。だから信頼を得ていたのです。若いのによくやっているという評価を社長からももらいました。お客さんも私を指名して問い合わせをしてくれます。嬉しかったですね。
信頼関係も大事です。あるフィリピン人のお客さんで保険料を払えない人がいたので、上司に相談し、上司が一時的に立て替えてくれたことがありました。契約更新の直後、そのフィリピン人が交通事故に遭いましたが、保険料でカバーされました。もし更新できていなければ、大変なことになっていましたね。お客さんや上司と私は信頼関係があったからことなきを得たと思います。

 

毎週日曜日はカトリックの教会に行って、午後はボランティアをしていました。
「ガブリエラ・USA」という団体で、ホームレスの人にドーナッツとコーヒーを配る活動に参加していました。ガブリエラは、フィリピンがスペインに植民地化されたとき、抵抗し独立運動を先導したリーダー、ガブリエラ・シランから名付けられたフィリピンの女性解放運動の団体です。今では世界中に支部があるけれど、最初に海外支部が作られたのがアメリカです。
このガブリエラでは、女性を見下すなという運動をやったりしていました。もともとこんな活動が好きなんです。
私が大学生のとき、フィリピン人の家事労働者がサウジアラビアでレイプされて殺された事件がありました。国中の女性たちが声を上げました。私もサウジアラビア大使館の前でデモ行進しました。女性だからといって見下され、暴力を振われるのは許せない、いつもそう思っていました。
アメリカでガブリエラの活動に関わって、ますます私は女性の人権に関わる運動に関心が高まりました。

 

アメリカではマイク(私のボーイフレンドで小学校からの同級生)のお母さんの一番の友だちがシアトルにいて、彼女がとても私を可愛がってくれて彼女の家に住まわせてくれていました。
そこへあるとき突然、フィリピンからダディが訪ねてきたんです。
しばらくシアトルに滞在して友だちに会ったりしていたのですが、数日後、脳梗塞で倒れてしまいました。前夜、旧友とチャイナタウンで飲んで遅く帰ってきたダディが翌朝、体がふらついて熱を出しました。私は仕事だったのでやむなく出勤したけれど、ダディはさらに状態が悪化して、家の人が病院に連れていってくれ即入院となりました。ダディは「気にするな、大丈夫」と言い張っていました。
そのうち少しは改善しましたが、体は思うように動かせなくなって目を離せない状態でした。土曜日が仕事のときには、父を私の事務所に連れていって座らせておいて、休憩時間は近くのドーナッツ屋さんに一緒に行ったりしていましたね。
家にいるときも、父から目を離せません。父がシャワーをしているときも、ドアを少し開けて「ダディ、大丈夫?」と声をかけていました。当時、兄のひとりがアメリカにいましたが船員の仕事でアラスカに滞在していたし、兄のガールフレンドと私は折り合いが悪いということもあって兄には父のことを頼れませんでした。

シャワールーム

 

渡米から1年が経ち、そろそろフィリピンに帰ろうかと思っていた時期でした。フィリピンにいるマイクと結婚したいと考えていたからです。
本当はもう少し働くつもりだったけれど、父がこういう状態になったからフィリピンに帰国することにしました。

 

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<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。