File.2-2 貧困と、学ぶ喜び

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.2>マユミさんの場合

貧困と、学ぶ喜び

 

ダディは貧しい家計の中でも子どもの教育に熱心でした。特に末っ子の私に、勉強が好きだった自分を投影していたのかもしれません。
学びたいという私の背中を押して、勉学を続けることを進めてくれました。教科書もろくに買い揃えることができないほど苦学しました。
でもこの教育によって私の考え方や行動の基礎が作られました。

 

私の小学校から大学までの進学先はダディが全部選びました。それはダディが私のことを大事にしてくれた証だと思っています。どれも私が全然知らない学校だったけれど、勉強が好きな私のことを思って選んでくれたんだと思っています。
私はマミーが46歳のときの子どもで、高齢出産だったので、無事に生まれて育つかわからないと思われていました。
幸い大きな問題はなく生まれましたが、体が弱くて小学校低学年の頃は学校を休みがちでした。それに一番末っ子だからか、泣き虫でした。
ところが初潮を迎えたら、身体が元気になり、あまり学校を休まないようになりました。
学校は好きでした。
勉強も頑張りましたし、クラブにも参加しました。いろんなコンテストでいい成績を取れるように頑張っていましたね。たとえばスペルを覚えるテスト、歴史を覚えるテストなどいろいろありました。クラスで1番を取ることもありました。
1年生だったときから成績ではライバルだったマイクという男子児童がいましたが、私のほうが欠席は多かったので、総合的な成績ではいつも負けていました。
ところが、6年生の卒業のころになって、とうとう私が1位になり、彼が3位になりました。マイクの両親が、私のところに来ておめでとうと言ってくれました。

実は、高校生の終わりごろからマイクは私のボーイフレンドになりました。16歳から22年間付き合いましたね。

私の通った高校は教育大学の付属高校だったので、他の一般的な高校と違いました。(フィリピンの当時の学校制度は幼稚園1年、小学校6年、高校4年の1−6−4制)
授業は先生に教わるというよりも、自分で探求し調べる、ディスカッションする教育でした。
周りの子もみんな勉強ができました。もちろん悪い子はいましたよ、いたずらやカンニングする子はいました。
私は遠方から通っていたので、通学は大変でした。遅刻寸前のときもしょっちゅうです。
あるとき私よりも遅く来た男子生徒がいましたが、彼は急ぐそぶりもなくゆっくり教室に入って、あっという間に解答して満点を取れていました。驚きましたね。
いろんな人と出会いました、いろんな得意なことがある人がいろいろいました。

 

私は高校1年生までボーイスカウトに入って活動していましたが、学生が軍のトレーニングに参加できるプログラムがあったので、2年生になってボーイスカウトをやめてミリタリートレーニングに参加するようになりました。
父が軍人だったというのもあると思いますが、まるでイギリスのようなセレモニーで、いでたちにひかれてしまったんです。制服が白と赤でとてもかっこいいのです。ただトレーニングは厳しかったです。
トレーニング時間以外も、ミリタリートレーニングを受けている生徒は規律を守らなくてはいけませんでした。
授業中、椅子は浅くしか腰掛けてはいけない、髪の毛も束ねておかなければならない、など細かなところまで厳しかったですね。ランチの食べ方も決められていました。いわゆる「三角食べ」です。
トレーニングの活動は土曜日でした。歌いながらジョギングして、私は小柄だったので後ろからついていっていました。いろんなトレーニングに参加し、学ぶことができて面白かったです。

木

だから、自分の息子にも体験させてあげられたらいいなと思っています。規律を学び、人との信頼関係を築くための学びになります。
私は高校4年間、続けました。
トレーニングの先輩で、私を可愛がってくれる人がいました。先輩から「ボ(私のファミリーネーム)、これを踊って」と命令されたり。上下関係の厳しさもあるけれど、そういうのも面白かったです。いつも、男の先輩から呼び出されたりしましたね。外の暑い中での訓練は大変でした。
あるときみんなで同じボトルのドリンクを回し飲みして「カマラデリ(仲間の連帯)」を確かめることもありました。仲間には男性も多かったので、ちょっとドキドキしましたけれどね。
あなたは一人じゃない、仲間だよ、と絆を確かめ合いました。
フィリピンは仲間意識が強いと思います。日本とは違いますね。

 

「お祈りはなんのためにするの?」と、校舎に落書きされていたことがありました。
学生が書いたのでしょう。1980年代、ニノイ・アキノ大統領の時代です。
若者が批判的な見方をするのは仕方がないと思いました。
プロテスト運動をした大学生は周りにもたくさんいましたし、私も高校生ですが運動に参加しました。
ところが父と母はマルコス派だったので、運動には反対でした。
私は新しい時代の子どもだし、新しい教育を受けています。
アジが以前は1キロ5ペソだったのに高騰して50ペソになっていました。「インフレで人々の生活が苦しくなっているのにマルコス政府は何をしているのだ!」と私も批判的な思考を持つようになっていました。
私の考え方は両親とは違いました。
ダディは政治的なことについて考えや意見を持っていましたが、マミーは政治的にどうというよりもイメルダにすごく憧れていただけでした。
私は悪口を言いません。だけど「こんな出来事がおきているのよ、マミー、これから時代が変わるの。時代が変わらないとだめになるのよ」というと、マミーが「あなたになにがわかるの」と受け止めてくれないのです。
だから、毎日のように口論していました。
きょうだいの中で、政治的なことに敏感なのは私だけでした。クリティカルシンキング(批判的思考)になっていました。逆に私以外のきょうだいたちはイエスマンになっているように思いました。
私は頭が固いと言われたけれど、そうじゃない、私は高校で学んだからなんです。
私は本当のことを知りたかった。これから、この国がどのように変わるか確かめないといけないでしょう。
ダディともいつも口喧嘩していました。「ダディがその学校を選んでくれたんでしょ。私はデモに行ってないわよ、たまたまデモの起こる学校に通っているだけよ」などと毎日、喧嘩腰でした。
私はイディオロジカルな考えを持っていました。両親、きょうだいとも考えかたが違うのは仕方ないですね。

 

医学部があったから、本当はそのまま高校が付属している大学に行きたかったのです。
私は将来病気を治す医師になりたいと思っていました。歯医者さんは怖いからなりたいと思いませんでしたが。
そこで医学部に高校の友だち3人で、見学に行きました。解剖の様子もとても興味深かったし、ホルマリンの匂いも嫌ではなかったですね。
その後、友だちと大学のカフェに行って、一番安いクロペック(クラッカーに似たお菓子)を食べました。
友だちはみんな頭が良かったけれど、時々一緒に学校をサボることもありました。サボると言っても、ただ喋るだけです。
学校をサボった翌日にテストがあって、サボった友だちはみんな焦っていましたが、私は自宅に帰ってからサボって受けられなかった授業の箇所を自分で勉強してカバーしていたから大丈夫でした。友だちはいつのまに勉強したの、と驚いていました。
私はみんなに合わせるところはあるけれど、しなければいけないことをサボるのはいやでしたから。やらなければいけないことをやらないのは気が済まない性格なのです。
私はちゃんとやりたい。
いつもテストの3日前には復習することにしていました。みんなには「ずるい」って言われましたね。
ダディは高校が付属する大学ではなく別の大学を選びました。
高校を卒業したら大学入学のための試験を受けますが、その試験結果をダディは私より先に見に行ったのです。
すると合格発表者に記載されていた私の名前にタイプミスがあったので、ダディが校長に文句を言いに行きました。
そこでの対応に納得できなかったダディは、怒って別の大学、メリノール大学(女子大)の願書を取り寄せて私に受験させたのです。
私の友だちも同じ大学に行くことがわかったので、私はダディに逆らわず、メリノール大学に入学しました。
私はメリノール大学では心理学を勉強したいと思っていたけれど、オリエンテーションでいろんなコースを紹介されたとき、ある先生の話を聞いて気持ちが大きく動きました。
その先生の専門は国際学でした。
そこで勉強すれば移民のこと、外交のことなどが学べると聞いてとても興味が湧きました。
私の関心を一番惹きつけたのは、国際法です。ダイナミックな世界の動きを捉える学問にワクワクしました。毎日世界が動いていて、世界からさまざまな新しい情報が入ってくる勉強は私にピッタリだと思いました。
ダディの親戚は弁護士が多かったからダディは私を弁護士にしたかったそうです。この学部をでて弁護士になった人もいると言われたのですが、私は弁護士にはなりたくありませんでした。
弁護士はいろんな証拠を集めて、自分のクライアントのために働きますね。たとえば白を黒という判断に導くために論理を組み立てなければならない。そういうのは私の性に合いませんでした。
たとえば女性がボーイフレンドからレイプされたとき、男性ではなく女性が非難されます。女性は泣いて終わり。男性が悪いことをしているのに、無罪になるなんて世界に私は行きたくなかったのです。
国際法は面白かったです。たとえば国境問題のこと。主張と主張の対抗など面白く、教科書をよく勉強しました。成績は最高評価の5を獲得しました。

学校

 

大学時代も金銭的な余裕はなく、なかなか教科書を買えませんでした。
グロリア姉さんも結婚して歌の仕事をやめていたし、三男のホセ兄さんはドラッグ中毒で入院してその費用も家族の負担になっていました。三女のジョセフィーヌ姉さんは日本で仕事をしていましたが、姉たちに頼ってばかりになるのはいやだったので泣きつきませんでした。たまにジョセフィーヌ姉さんが資金をくれたときも節約していました。グロリア姉さんは「お金がないなら勉強しなくていいわよ」と私にいいます。
なんとか学業を続けたいけれど、私は教科書を買う300ペソのお金が捻出できませんでした。教科書もコピーばかりなので困っていました。
仕方なく、お姉さんが看護師をしているという友だちに、お金を貸してと頼みこみました。
彼女は快く貸してくれましたね。
買い物にでかけるから一緒に行こうといって、さりげなく教科書代金を出してくれたんです。すごく嬉しくてね、ろうそくに火を灯してでも勉強しよう。せっかく手に入れた教科書を全部覚えようと思いました。
勉強しなくていい、と言った姉を見返してやろうと誓いました。
そんな状態だったので一生懸命勉強しましたね。
先生が試験用紙を返すとき、こんなにこの科目が好きなんだね、と言って褒めてくれました。私はお昼ご飯を買うお金もなかったので、午前の授業は出ずに午後から出席していたのです。それでもよい成績だったので先生は驚いたのだと思います。
私は褒められて嬉しかったけれど、他のクラスメートが見ていたので恥ずかしかったです。
先生にはお金がない、とは言えませんでした。
友だちがわいわい賑やかにしていて、誘われてもその輪にはほとんど加われませんでした。セレブの友達の財布には5万ペソがふつうに入っていたりしましたね。レベルがあまりにも違っていました。
クラスメートの自宅に招かれて、冷蔵庫の中を見たときアイスクリームがいっぱいあって、目を輝かせたこともありました。可愛らしく飾られたベッドルームはとても素敵でした。
それでも、私はクラスメートにレベルを合わせようと背伸びをすることもしませんでした。

 

なんとか学費と生活費を自分で捻出しようと、商売を考えました。
高校のときには、台湾製のかわいい文具を仕入れてクラスメートに販売しました。
大学のときはTシャツを仕入れて売ったり、友人の手作りのドレスを買い入れて販売したりしたこともありました。
日本ではそのころ阪神淡路大震災が起こり、被災したジョセフィーヌ姉さんは大変な状況になっていて、頼ることはできなくなっていました。だったら周りにお金を無心するのではなく、自分で稼ごうと決意したのです。
稼いだお金は大事に使いました。外にランチに出かけようと誘われても、行かないようにしていました。先生にも他のクラスメートにも自分が貧しいということを知られないようにしていました。
午前中にあったある先生の講義を休んだら、先生はとても不快に思われたようで理由を問われました。
私はお金がなくてランチを節約するために、午後から講義に出るようにしていると言いました。
先生はそれならそう言えばいいのにといいましたが、私は人に知られたくなかった。恥ずかしかったのです。
だから私はどうやったらお金を稼げるのか、常にビジネスをすることを考えていました。
あるとき、学校で遠足があり、バスの手配を自ら手を上げて担当したことがあります。
もちろん、私にバス会社とのコネクションなんかありません。ですが、バス会社に交渉して、安くしてもらうことができ、自分のバス旅行のお金をそこから捻出しました。
両親は私がこんなことをしていたとはまったく気づきませんでした。

 

いつも私には仕事しなくていいから自分のやりたい勉強して、というダディ。
私はそう思わなくなりました。
勉強はもういいかな、仕事したいと思いました。
ダディにとって私は末っ子なのでとても可愛がってくれましたが、私はせっかく大学を出たので、もっと外の社会のことを知りたいと思っていました。だけれどダディは仕事しなくていい、っていうタイプでしたね。
勉強を続けるのにこんなにサポートしてくれたことを感謝しています。

 

▶︎File.2-3 甥の“母”になる へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。