File.1-9 私の仕事〜再び社会とつながる4

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.1> けいちゃんの場合

私の仕事〜再び社会とつながる(前回のつづき)

 

●一人でどこでもいける

フィリピンで暮らしているときも、私は職場と家の往復がほとんどで、あちこち出かけたり遊びに行ったりしませんでした。
日本で仕事をするようになっても、家と事務所の行き来のみという狭い行動範囲にとどまっていました。
自宅の最寄り駅から阪神電車に乗り、降りたら送迎バスに乗る、その往復です。
通勤以外はどこへ行くにも夫と一緒で、その時も常に彼の運転する車で移動です。
公共バスは乗り方すら知りませんでした。

 

通訳の仕事や多文化サポーターは出先での仕事になりますが、当初「三宮で集合」と言われても全くわかりませんでした。
「NGO神戸外国人救援ネット」で通訳のために相談者に同行するようになり、あちらこちらへと出向くことになりました。
外国人支援関係のフォーラムに出席するため、東京へも一人で行きました。
自分の成長に自身でも驚きます。

 

昔、通勤電車に乗ったとき、うっかり電車の中で居眠りをしてしまい、気づいたら見知らぬ景色。
電車は海の方へと向かって橋を渡っているように見えたので私はびっくりして夫に電話しました。
自分がどこにいるかわからないと泣いて訴えたら、夫は、「おそらく大阪の近くだから、梅田駅に着いたら構内から出ずに姫路方面(逆方向)の電車に乗ったら帰れるから大丈夫」と言いました。
なんとか無事に帰れたのですが、一気に疲れてしまい、その日は仕事を休んでしまいました。
そのときの不安感は本当にひどいものでした。

 

でも、今では初めてのところでも自分で調べて、どこへでも一人でいく勇気があります。
かつて「多文化サポーター」の仕事のときは、事前に行き先の学校の場所を調べておいて前日には現地へ下見に行っていましたが、もう下見に行かなくても平気です。
夫は「俺よりお前のほうが地理に詳しいよ。連れていって」といってくるほどです。
世界が広がり、ワクワクして楽しい、もっとこうした活動を続けたいと強く思います。

 

活動や仕事の中で、さまざまな人に出会いました。
全国の外国人の人権問題に取り組むNPO「移住者と連帯する全国ネットワーク」主催のフォーラムに初めて参加したとき、私たちのために活動している人がこんなにも日本にいるということ、それもほとんど日本人だということに驚くとともに、とても感動しました。

 

この社会は「私たちのところ」じゃないから、差別されてもしょうがないと肩身の狭い思いをしていました。
ところが、こうして外国人住民の人権のために熱心に活動している人たちがたくさんいることを知り、私も頑張って貢献しないといけないと意を強くしました。

 

 

●日本は私の居場所?

たまたま夫がいないとき、料理に必要な食品を買い忘れていたので、スーパーに出かけたことがありました。
レジで会計をしているとき、値札のない品物があり、その値段を確認するために店員がレジを一時的に外れたのです。
すると私のあとに並んでいた男性が「お前なにやっとんねん!」と声を荒げて怒り出しました。
列に並んでいる人を待たせていることはわかっていたけれど、ただ「ごめんなさい」としか言えず「お先にどうぞ」とも言えず、レジ横の隅で身を小さくして待っていることしかできませんでした。
私は、差別的な態度を取られたと感じました。

 

子どもたちとの関係の中でも疎外感を感じたことがあります。
小学生のとき、子どもたちは家に帰ってきてから学校の様子を楽しそうに私に話してくれていました。
ところが中学生になると、会話もだんだん少なくなり、私が尋ねてもあまり答えなくなりました。
「マミーに言ってもどうせわからないだろう!」と返されたのはとても衝撃を受けました。

今思い返せば、そのころ息子は反抗期だったので成長段階においてありえる反応だったのかもしれませんが、私が日本語をわからないから日本の学校のことや勉強のことを理解できないだろう、となじられたように当時は受け止めました。

職場で差別や嫌がらせを受けたり、子どもが学校で嫌がらせをされたり、ということは、幸いにもありませんでした。

それは、差別の起こらない環境だったというよりも、常に日本人の夫が私のいくところについていってくれたからでしょう。私が非常に怖がっていたので、子どもの学校に行くにも夫が一緒でした。

何を言われるかわからない、言われても答えられない状況に陥ることを想像すると恐怖を感じました。

息子が幼稚園に通っているときも、さまざまな当番が回ってくるとビクビクしてしまい、他のお母さんたちのやっていることを見よう見真似するのが精一杯です。
その行動の意味は理解できていませんでしたが、誰かに尋ねることもできませんでした。

家族や仕事場など限られた世界の外は、怖くてしょうがなかったのです。

 

日本は私にとって居場所ではないと感じていました。

 

▶︎File.1-10 学びたい1 へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。