<サンパギータFile.4>愛さんの場合
2022年3月、東日本大震災に関するある新聞記事の中で、避難所で娘のためにミルクが欲しいと伝えることができなかったと話すフィリピン女性「愛さん」のことを読んだ。彼女は東日本から引っ越して、今は兵庫県三田市に住んでいるという。
ぜひ彼女の話を聞きたいと思い、彼女が通う教会の関係者の方を通じてコンタクトを取った。「喜んで」という返事が届いたので、すぐに日程を決めて彼女の仕事場を訪ねた。
田園風景が広がる少し小高い丘の上、白い外壁の建物。私が駐車場に着いたとき、まだ彼女は到着していなかった。少し待っていると、黒いトヨタのワンボックスが近づいてきて、窓が開いた。「すみません、お待たせしました」と言いながら黒のパンツ姿の女性が颯爽と降りてきて、にこやかに事務所へ私を迎え入れてくれた。
彼女の仕事場には、自身が運営する英会話教室とフィリピンの食品や日用品を扱うお店が併設されている。お店の中にはフィリピンの人々が交流できるサロンスペースが設けられており、そこでお話をさせていただいた。
彼女は日本語が非常に達者なので、日本語だけでインタビューを行った。豊かな語彙とさっぱりした話し方が印象的で、語尾に関西弁のイントネーションが混じるのがチャーミングだ。話の端々に、なにか自信のようなものも感じられ、愛さんがどんな人生をこれまで送ってきたのか、とても興味が沸いた。
結局、愛さんからは合計3回、およそ6時間にわたってお話を伺った。
夫との出会い
ただ日本はもともと大好きでした。日本の国旗は不思議なデザインだなと思っていましたし、日本の音楽、日本の季節にも興味がありました。
日本に行ってみたいとは思っていましたが、結婚して住むようになるとは思っていませんでした。
すべては運命ですね。
来日したのは、2004年のことです。
大学では教育学を専攻していたので、2002年に卒業したあとは教育関係の仕事をしたいと思っていました。しかし、競争が激しく、学校には就職できませんでした。どうしようかと思っているとき、友だちから、カジノで仕事をしないかと言われました。経験がない仕事なので不安でしたが、その友だちにトレーニングがあるから大丈夫と言われ、カジノに入ることにしました。
カジノの仕事を始めて多分半年くらいかな、私がディーラーをしていたとき、日本人の男性がカジノに遊びにきていました。「こんにちは、いらっしゃいませ」と私は英語で挨拶をしました。最初はその挨拶をしただけです。
その後はまったくなにも連絡はありませんでしたが、4ヶ月後にまた彼がカジノに来たんです。「家はどこですか」などと、いろいろ聞かれ「あなたのことが気になるから、ご飯でもいきませんか」と言われました。
それで何度かご飯を食べにいって、その人と付き合うことになりました。
彼はトラックの運転手をしていました。最初に挨拶をしたのが8月、2回目は4ヶ月後の12月、そして翌年の3月にもフィリピンに来てくれました。このとき、私はひどい頭痛と体調不良で入院していてカジノにはいませんでした。それを彼は店長に聞いて、病院まで私を探して会いにきてくれたのです。日本の果物をお土産に持って。
私のことをそれほど強く思ってくれてるんやなと思いました。
その後、すぐ結婚しなくてもいいから、日本に来て欲しいと言われました。驚きましたが、私は、日本で自分が大学で学んだ教育関係の仕事ができたら結婚してもよいと思いました。彼は私の家に来たときも家族みんなとわいわいと過ごせていたので、彼と家族になることが自然な感じになりました。私の家族も、彼が優しいとか、私を託しても大丈夫と思ったようです。それで家族もオッケーしました。
彼が、結婚していなくても私を日本に呼び寄せることができると言ったので、まずは婚約者として短期滞在の在留資格で来日しました。そして日本で結婚しました。
出会った当初、彼との会話はタガログ語と英語がメインでした。夫は自分のできるカタコトの英語でしゃべりましたが、そのうちに英語がずいぶんできるようになって、私は日本語を話せるようになって、2言語を混ぜてしゃべっていました。
二人の間では、長い会話のやりとりはあまりなく、単語をつなぐ感じで話をしていました。初めは「ミズ(水)」とか「ゴトムナコ(gutom na ako)」(お腹がすいた)など簡単な言葉だけでしたが、どんどん言葉が増えていきました。夫もタガログ語を勉強しました。夫は、タガログ語の歌も覚えて、私に「歌えるよ」と胸を張っていました。努力したようです。おかげで、今ではだいぶタガログ語を話せるようになりました。
もともと日本は好きでしたが、よくは知らなかった。
私の父方の祖母が、日本はあかんよ、ってよく言っていました。日本人はフィリピンのことをよく思っていないと。
おばあちゃんも日本語が少しできるのですが、これは聞いた話ですが、戦争のときに、おばあちゃんは結婚前に日本人の彼氏がいたのですが、性格も言葉もきつかったらしいです。暴力も振るわれたそうです。まだ恋人の関係なのに。戦争中だったから仕方なかったのかもしれないけれど、人間だから。自分の子どもたちにも、日本人はあかんよ、と言い聞かせていたそうです。
でも私は、頭の中では日本人が絶対だめとは思わなかった。いつもおばあちゃんの話を聞いていたけれど、私の両親はどこの国の人であっても愛情があればいい、と言っていましたから。
それで決めたんです。結婚することを。もちろん不安はありました。でも彼の愛情を信じていたから、私のことを守ってくれると安心していました。
彼は1つ年上なだけで、年齢も近く友だちのような感覚がありました。趣味や好きなものが一致していたり。ただ、彼は日本人なので違いも感じます。同じフィリピン人と結婚すれば、言葉が同じなのですぐコミュニケーションが取れますが、言葉が違うと些細な違いでけんかになることもあります。日本人の性格とフィリピン人の性格が違いますし。
たとえば他の国の人だったら、普通は皆の前で妻のことを持ち上げるのですが、日本人は逆で、見下げるんです。こいつ料理まずいよ、とか。私が免許を取りたてで初めて運転したとき、何回やっても車のバックができないのを、他人の奥さんと比べたりしてました。うちの奥さんはアホやな、バックできないんだって、言われました。それは日本人の性格なのかなと思いました。自分が上、奥さんが下と思うことで、気持ちよく感じるらしい。
夫は私を悪く思っているのじゃなくて、レベルをあげてほしいと思っているのだろうけれど、いつも下げてくるので頑張る元気がなくなっちゃう。免許取れてすごいなという褒め言葉はまったくない。私が成功したことを褒めてもくれない。他人がおらず、二人っきりでいるときでも、ない。それは彼の元々の性格で、フィリピンで会ったときは、隠れていて見えなかったんやろなって。付き合っている期間は長いけれど、会っている時間は短かったし、面と向かって話をした時間も短かった。裏の性格は知らなかった。
だからそんな性格をわからなかったのは「しゃーない」と思った。友だちから、いろんな話を聞いていると、うちと違うなと思った。そういう家庭もあるな、うちはこれなんだなと。いろいろあるから、みんな違うからと思っていた。
ほんとはマイナスやけど、これがうちなんだと諦めた。
奈良雅美(なら・まさみ)
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。