File.4-2 教育者の両親のもとで

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.4>愛さんの場合

教育者の両親のもとで

 

私はフィリピンのセブ島のラプラプシティで1980年に生まれました。
父は小学校の先生で、母は保育園の先生でした。母は1年前に亡くなりましたが、父は今でもセブ島にいます。
きょうだいは4人で、一番上が姉、そして私、下に弟と妹がいます。両親、きょうだいとも仲がよい家族でした。

 

小さい頃は他の仕事をしたいなと思ったこともあったのですが、教育関係だった両親の影響のせいか、教育学を大学で専攻しました。普通の学校に行って1年生から6年生まで、父も同じ時間に出勤して帰宅するという感じで、母は子どもたちよりも早く帰宅する感じでした。小さなけんかはありましたが、両親は大体仲が良かったですね。
姉は、私にとって憧れでした。姉は今フィリピンで小学校の先生をしています。弟は船舶のエンジニアの仕事をしていて、今はフランスの船に乗っています。船が変わると仕事をする国も変わるようです。今はコーンなどの肥料を運搬しています。弟が帰国するのは2年に1回なので、それに合わせて私も帰国します。妹は看護師で、カナダで看護師を2年間しましたが、母が病気になったのでフィリピンに帰りました。他の人の世話をするより、母の世話をしたいと言い、6年間看護しました。
みんな、なりたい仕事についています。

兄弟のシルエット

フィリピンでもきょうだい喧嘩はよくありますが、私たちはそれぞれとても忙しいので、喧嘩する暇がないですね。お互いの考えがずれる暇がない。
姉も私も仕事で忙しく、連絡をとるときでも「元気?」「体大丈夫?」ととても短いやり取りで済んでしまいます。妹は母が亡くなって今は落ち着いています。彼女は母の介護からくる心労のため、しばらくの間は体調不良でした。今はゆっくり暮らしています。大変だったと思いますが、自分の時間がもてるようになりました。

 

子どもの頃のフィリピンの経済状況はあまりよくなかったので、治安は悪く、怖いこともありました。
私が小さいとき、私の母は保育園の先生をしながら、家でちっちゃいサリサリストア(家に併設した日用雑貨店)を経営していました。そのサリサリストアが3人の強盗に襲われたことがありました。姉が小学校2年生だったから、私は幼稚園ぐらいのときかな。一人はピストルをもち、一人は包丁を持っていました。家には母と、私と姉と弟がいましたが、強盗の一人が私の服をつかんで引っ張り、母の服もひっぱってぐちゃぐちゃになっていました。
母のサリサリストアは、近所の他のストアと違って食べ物を扱っていました。それで狙われたのだと思います。うちのストアには現金があると思われたのです。
彼らは押し入ってくるなりピストルを発射して私たちを脅しました。3人は顔を黒い布で隠し、服も全身黒でした。手袋も黒でした。一人の持つナイフが光っていました。「動いたら刺すぞ」と。3人きょうだいで固まりましたが、母は抵抗して彼らに「やめて! やめて!」と叫びました。姉は母に「もういいよ!」と抵抗を止めるようにいい、犯人たちには「好きなようにとって」と。一人が私たちを、もう一人が母を、動かないように見張り、残る一人が店のものを袋に詰めて、逃げていきました。
ものすごく怖かった。
今でもそのシーンは頭に焼き付いていてはっきりと覚えています。しっかり者の母はその後もサリサリストアを続けました。

 

雨の日の傘

そんな母も1年前に亡くなりました。私は日本で娘や夫とどれだけ喧嘩してもフィリピンに帰りたいと思ったことはありませんが、母が危篤状態だったときだけは、フィリピンに戻りたいと思いました。
母にはなんの恩返しもできずじまいだったから。

 

▶︎File.4-3 フィリピン学校教育の苛烈な競争 へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。