File.3-8 ずっと心の支えは息子だった

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.3>リザさんの場合

ずっと心の支えは息子だった

 

とても優しい息子なの。離れ離れだったのに、ずっと私が母親でいられたのは息子のおかげだと思います。
厳しい状況の中でも、諦めないという気持ちを強く持ち続けられました。

 

前のフィリピン人の彼――息子の父親ですが、彼は渡米後まもなく、連絡を私によこさなくなり、息子がどういう状況なのかわからなくなりかけました。しかし、当時アメリカで暮らしていた義理の姉(一番上の兄の妻)から、息子の情報を時々知らせてもらえました。息子とは電話かテレビ電話、手紙だけのやりとりでした。
私は絶対息子に会うと固く心に決めました。正直言うと、息子が私のことを忘れてしまうのではとずっと気になっていてとても辛かったんです。でも離れていても、ずっと繋がり続けていれば、母親として息子を導くことができる、アドバイスもできる。
その時からスタートだった。日本からアメリカ行きのビザを取得しようと努力した。当時夫だったHさんは「無理でしょう」と言ったけれど、私は「やってみないとわからない」と言い切ったの。申請書類を準備し、領事館で面接も受けました。そしたら10年有効のビザが取れたんです。
それで9年ぶりにやっと会いにいけたのよ。そのとき、息子はすでに12歳になっていました。私は、37歳でした。困難でいっぱいでしたが、ビザを取得してやっと息子にたどりついたのです。

パスポートのスタンプと地図

2度目に会いに行けたのは、彼が高校を卒業した時でした。仕事を始めていて生活も大変だったのでなかなか頻繁には会いにいけませんでした。それでも息子と再び絆を取り戻すことができ、息子とはいい関係を作ることができました。
テレビ電話できるようになってからは、顔を見ながらコミュニケーションできるようになりました。画面越しに二人で泣きながらよく話しましたね。今でも思い出します。カルロが初めてテレビ電話で私を見たとき、彼の表情は緊張のせいか固まっていましたね。
幼い頃はおもちゃを送ったりしました。手紙のやり取りもずっとしました。母としてできることを精一杯しました。
結局息子の父親は、カルロを私の兄の妻のところに預け、自分は別の女性と結婚し家庭を持ちました。カルロは父にも見放された形になり、私はすごく悲しかった。彼に何度も、フィリピンへ息子を戻してほしいと訴えました。私が日本に連れていくからと。でも戻してくれなかったのです。
渡米後、息子は義理の姉に育てられました。「カルロはとてもいい子よ」とは言っていましたが、両親が存命なのにどちらにも養護されていない状態です。周りも心配してくれたけれどどうにもならなかった。私のビザが取れたときは本当に嬉しかった。願いが叶った! と大喜びしました。
カルロはいとこたちとともに兄の8人家族の中で育てられました。私は息子に言い聞かせていました。周りの人の親切に感謝すること、人には敬意をもって接すること、友だちは選ぶこと。この言いつけは、彼の父親のことがあったためです。父親のようになってほしくないと強く思っていましたから。

 

息子にはもう一つ大きな問題がありました。長期滞在できるビザを持たない状態で渡米させられたので、アメリカでは「不法滞在者」になってしまっていました。高校まではIDがなくても生活できたけれど、大学へ進学するためにはSSS(義務兵役サービス)への登録が必要でした。
私は息子に、フィリピンに戻ってフィリピンの大学へ進学するよう勧めました。でも彼はアメリカ育ちでその生活に慣れ親しんでおり、今さらフィリピンへ帰る気持ちはないというのです。でもIDがないままでは彼の将来はありません。私は国際手配してフィリピンへ帰らせるように圧力かけるわよ、と彼に強く言いましたが、彼は首を縦に振りませんでした。彼は自分で解決策を考えたんです。
彼には、フィリピン人の両親の元、アメリカで生まれた彼女がいました。彼女と結婚してアメリカの市民権を取得するというのです。手続きに時間がかかりましたが、市民権を取得することができました。彼はフィリピンへも日本へも自由に行けるように、ようやくなったのです。
しかし生活が大変だったようです。大学へ進学しましたが、仕事しながらの学業だったので1、2年で辞めました。私は頑張って続けてほしかったけれど、家族の生活を支えなければいけないので仕方がないと思いました。

 

実は私は長年日本で働いてきてこつこと貯めたお金で、息子のためにマニラに土地を購入しました。私のためじゃなく息子の将来の安心のためにね。いつか将来、息子がフィリピンに帰国したときのために。
私も将来はフィリピンに帰ろうと思っています。息子はフィリピンには帰る気持ちはまだないようだけれど。もし住まないことになっても土地なら売却して資金に変えることもできます。
だから貯金代わりです。私は幸せよ、息子のために夢を持つことができるから。

 

日本の親は子どもに対して責任を果たそうとします。責任感があると思います。
でも日本人とは違って多くのフィリピン人の男性は子どもについて無責任です。彼の父親は息子に対し無責任でした。無責任にも息子を放り出しました。彼の父は無軌道でギャンブル好きで、子どもの将来を考えなかった。
私は息子には、長いこと会えなかったけれど、あなたのためにずっと日本で働いてきたと言える。だから私は息子のために親としての責任を果たしたいのです。息子に対しずっと負い目を感じてきた私のことを、彼は心配しているようですが、いつも必ず「わかったよマミー。僕は幸せだよ」と私に言ってくれるのです。
「これはあなたのために全部残すわね。離れていたけれど、マミーはずっと働いてきたから。あなたは私のたった一人の息子だから。あなたは男だからHead of the familyでしょ。あなたには家族を守る責任があるから。私はあなたのためにできることをする」「マミー、そんなに頑張らなくていいよ」「私は大丈夫だから。あなたは私以外に誰も親がいないでしょ」(数年前に息子の父親はフィリピンに帰国して亡くなりましたから)
私は元気なうちに息子と一緒の時間を過ごしたいのです。でも現実にはそれぞれの生活があるから、私は遠くから応援するしかないね。もし、もし、いつか一緒に住めたらいいな、と思うのだけれど、彼の奥さんがいるから難しいかな。私はほとんど息子と生活したことがないからそう思うのね。でも互いに歩み寄ったらいいんじゃないかなと思います。私はいつでも息子たちを助けてあげたいと思っているから。そう、息子と一緒に住んでみたい。
でもね、私も日本を離れたくないという気持ちがあります。なぜかって? 息子がアメリカ暮らしに慣れたのと同じで、私も日本の暮らしがもう染み付いてしまったからです。だから。
最初、私にとって日本とはただの仕事場だった。ずっと住むつもりはなかったのです。でも日本での暮らしを経験したら、みんな帰りたくないと思います。そういう外国出身の人は多いのではないかしら。安全でしょ、健康保険あるでしょ。安心なのね。頑張れば仕事をいつまでもできます。それはね、どんな仕事もハードですよ。だけれど、日本は頑張れば仕事を見つけることができるから。よそに住んだ経験がないから、他の国がどうか知らないけれど。私の知る限りではね。

 

私の人生は苦労の連続でした。だけれどそういう経験をして私は深く考えるようになったし、大人になったと思います。人間の幅を広くしてくれたと思います。人間関係を深く理解できるようになった。
中には、ハードシップを経験しない人もいるでしょう。だからいろんな人と上手くやっていくとことが難しい人もいる。でも苦労したら、自分も今度はどんなことがきても、どんなチャレンジングな問題がきても平気になる。解決しようと意欲が湧く。強くなったら、大きな問題もやってやろうと思える。日常生活の中には、いろんな変化があって、それに対応していかなくちゃいけない。人間として成熟していけると思う。人生をどうアジャストするか。どのように人に配慮しなければいけないか。経験とは、人生の先生だと思う。
私の歌にもそういう経験が反映されていると思います。いろんな言語の歌を歌うけれど、タガログ語の歌を歌うと、やっぱり一番自分の中で深く入ってくるから時々涙がでます。日本人のお客さんはタガログ語が理解できないので滅多に歌いませんが、たまにリクエストをもらうこともあります。

 

日本で苦労するフィリピーナはたくさんいます。だけど、彼女たちを助けてくれるところもたくさんあります。各地のNGO、日本政府もね。
私はこのパンデミックの期間に、日本で暮らすことができてラッキーだと思います。他の国は大変でしょう。
辛い思いをしてきたけれど、それも息子がいたから努力して乗り越えられました。息子夫婦には子どもがなかなか生まれなかったけれど、ようやく先日生まれたんです。それでこの(2021年)12月に思い切って渡米することにしました。今回、息子家族とクリスマス休暇をアメリカで過ごしますが、1ヶ月もの長い間、滞在するのは初めてです。フィリピンでだってクリスマスを一緒に過ごしたことはありませんから。
2021年12月に息子家族に会えたときはとても嬉しかった。義理の娘(息子の妻)にも会えて嬉しかった。息子たちとは8年ぶりの再会で、それまでは電話だけでした。昨年生まれた孫を初めてこの手に抱くことができてとても幸せでした。
ただ渡米まではとても迷いましたし、困難もありました。新型コロナのせいです。まだ蔓延しているころで、行くかどうか迷いました。
でも私は息子と約束をしたのです。会いに行くと。仕事もなんとか休みを確保できていました。何度も何度も考えました。姉にも相談しました。息子をがっかりさせないほうがいいと姉は言いました。飛行機のチケットも息子が用意してくれ、渡米の状況はすべて整っていました。私はチャレンジ精神で諦めない。覚悟を決めて行くことにしました。きっとうまくいく。ウイルスは怖くない!健康ならウイルスに負けない、と信じて。行こう!
そして日本を立ちました。アメリカで彼らに会えてとても幸せ。いい思い出になりました。
私はこれまで彼に期待を持たせるような約束をしたことがありませんでした。遠く離れているため、必ず果たせるとは限らないから。母親として息子をがっかりさせたくない。期待が大きければ大きいほどがっかりさせるでしょ。約束を破ったら、息子は私を2度と信用しなくなるでしょう。

メリーランド

向こうについたとき、PCR検査はそんなに厳しくなかった。息子たちの住むメリーランドはそんなに人口は多くなく、人で混み合うようなところはありませんでした。公共交通機関はそこそこ人がいるらしいのですが、使う機会はありませんでした。だいたいどこへ行くにも息子の車で移動していましたから、快適でした。人との距離といっても、アメリカはどこもかしこも大きいのでソーシャルディスタンスを気にする必要はありません。私はパンデミックを意識しないでいることができました。デパートに入っても、だれもコロナを気にする様子はありません。なんで日本はそんなに気にし続けているんでしょうね。
滞在中にフロリダにも行きました。義理の姉がバージニアにいるのですが、フロリダにも家があるのでぜひそこで会いましょう、長い間会ってないもの、と誘われてフロリダで5日間過ごしました。他には特に出かけませんでしたね。まだ孫が生後1ヶ月ほどだったので遠くへは行かず、近くの親類などと会うぐらいでのんびりと過ごしました。
とても楽しかった。幸せでした。息子、義理の娘、孫、彼らと過ごせるのは何よりでした。息子もとても嬉しかったようです。
息子はデルタ航空で働いているのでチケットが無料で手に入るので、高い費用を負担せずに渡航できたのもよかったです。「とく(得)」だったわね。手数料とかで15ドル払っただけよ。だから息子も簡単においでよ、と言ってくれるのね。

 

息子はデルタ航空で7年ほど勤めているのだけれど、私は常々大学に戻って学業を続けてほしいと言っているけれど、彼にはあまりその気がないみたい。今は家族を養っていかなければいけないからそんな余裕はないのでしょうけれど。私も大学を途中で辞めてしまったから、彼には大学で学業を再開してほしいと願っている。いまじゃなくてもいいから。

 

▶︎File.3-9 お金がなくて大学に進学できなかった悔しさ へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。