<サンパギータFile.3>リザさんの場合
お金がなくて大学に進学できなかった悔しさ
お金があったら、両親の理解がもっとあったら、今でもそのことが悔やまれてならない。
「苦労」一言でいえばそう。ずっと子どもの時から苦労の連続だった。経済的な問題から逃れたかった。
こんな生活はいやだ!
自分の人生を自らの手で切り開きたいと思った。社会的に安定した地位を築きたかった。勉強を続けたかった。
でも母は娘の学業継続には消極的だった。父は娘の教育には積極的だったけど、母がそうではなかった。母は父に「どうせ娘は結婚するんだから教育は必要ないわよ」と言い張りました。
私はなんとかして解決策を見つけようとしました。兄には父と長姉が学費を出していました。私は6番目の姉のグロリアに学費を支援してほしいと懇願しました。グロリアは時折お金を送ってくれました。それはとても感謝している、だけれど継続的ではなかった。末の妹は日本に働きに来ていた7番目の姉のジョセフィーヌに、自分の学費の支援を頼み込んだ。ジョセフィーヌは両親にもお金を渡していたので、そこから私の学費も出してとお願いしたけれど、母は首を縦に振らなかった。
父と母は私の学費についてたびたび喧嘩をしていました。母はいつも生活費のことでぶつぶつ文句を言っていました。彼女の文句を聞くたびに、私は、海外に行って稼いで自分でなんとかするし、うちの家計も助けるからとなだめました。うちはいつも貧乏だった。
10人いるきょうだいの中では、大学を卒業したのは3人だけ。私と姉たち3人が支援して末の妹は大学を卒業できたわ。彼女は非常に頭がよく、よい高校、大学へと進学する能力があった。だから私たちはサポートしたの。特にジョセフィーヌが中心になってね。彼女はきょうだいの世話をよくしました。末の妹はラッキーだった。
私の両親はとても古い考え方の人たちで、多分第二次世界大戦の生まれじゃないかしら。母は小学校を卒業したかしないか、父は大学に行きたかったけれど行けなかった。
本当は軍隊に就職してから、政府の奨学金でアメリカの大学へ行こうとしたけれど、結婚してすでに子どもも何人か生まれていたので、断念せざるを得なかった。父は、各地を転々とさせられた。朝鮮戦争も、ベトナム戦争にも派遣されたわ。
奈良雅美(なら・まさみ)
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。