File.4-5 日本語と車

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.4>愛さんの場合

日本語と車

 

基本的には日本人はやさしい。
だけど中には「この子は日本人じゃないから、私たちはこの子としゃべらなくていいんや」と思われてると、私は感じることもあった。

 

日本に来て初めて住んだのは横浜です。狭いアパートで1年ほど暮らし、よく近所の小さな喫茶店に通っていました。その喫茶店を拠点にしているNPOみたいなのがあって、そこに参加するようになりました。
私はまったく日本語がわかりませんでしたが、彼らは外国人に興味があったようで、そこで会話をしたりしました。とにかく私は喋るタイプなの。人と直接会って、おしゃべりをするのが好き。人の話を聞くのももちろん好きです。人の話しているのをずっと聞いているだけのときもあるし、あまり話さない人だと私が話さなあかんなと、自分がしゃべる側になります。そこから日本語がめちゃくちゃ伸びて。週に3回くらい通ってました。

窓際に置かれたコーヒー

喫茶店はオープンが夕方の4時で、夜の12時までの営業でした。オーナーのおばさんが夜のほうが自分は動きやすいと言って、夜を中心に営業していました。変わった喫茶店でした。その店は山下公園の近くにありました。有名な観光スポットでもあるので、公園はライトアップされていて、いろんなお客さんが来ていましたね。私は夕方の4時とか5時に喫茶店に行って、1時間くらい過ごしてから帰宅して自分の用事をしていました。3、4人、多いときは5、6人ぐらいが集まって、コーヒーやジュース一杯で話をするんです。大体ワンパターンで、いつも同じような人と話す。新しい人がくるとその人たちとしゃべります。雑誌や新聞がたくさん置いてあって、ゆっくりできるなと思いました。
1年足らずで彼の転勤が決まり、東京の足立区に引っ越してしまいましたが、ここで、日本語で会話する力が伸びました。

 

足立区のワンルームアパートでは2、3年暮らしました。夫は不在がちで、一人での日常生活は時間が無駄になると思ったけれど、なにもすることがありませんでした。そんな私の様子を見て、夫が知り合いのラーメン屋さんに「うちの母ちゃんになにか仕事をさせてください」といって頼んでくれ、そこで洗い場の仕事をするようになりました。
ラーメン屋さんの仕事も日本語の勉強になりました。仕事ではメニューを読めなくちゃならないので、たとえば「定食」という漢字ですね、「ラーメン定食」のラーメンはカタカナなのですぐ読めるのですが「定食」がわからず、教えてもらって覚えたんです。
新しいメニューがでると、旦那さんと勉強しました。ラーメン以外は「豚ヘレ定食」とか、そういうのも勉強しなくてはならないので、そういうのでも日本語が伸びました。飲み物、とか。私はオーダーを取らないんですが、万が一、料理する人か、料理を運ぶ人のどっちかが休むと、私が代わりをしなくてはいけない。それは結局そういうことはなかったのですが、メニューだけ覚えておいてくださいと言われました。
ていねいな言葉で話してくださいと言われました。「少々お待ちください」とかです。「ちょっと待ってください」とは言わないでくださいとオーナーに注意されました。ここでの経験で日本語がめっちゃ伸びました。
仕事はお店の人が教えてくれました。うちの旦那はお店に私を紹介しただけで、何か教えてくれたわけではなく、現場の仕事の細かい作業は自分で学びました。初めの何日かは大変でしたね。でも最初は洗い物とご飯を炊くだけ。洗い物といっても、ラーメン屋やから洗い物が多いので機械で洗う。だから、機械のどこのボタンを押したらいいかを覚えるだけです。あとは洗浄が間に合わないときや、機械に入れられない食器の手洗いでした。他は消毒。消毒も機械があって、どのボタンを押すかを覚えるだけです。ここでの仕事はいい経験になりましたね。
やっぱり私はフィリピン人だから「ありがとうございました」とか「いらっしゃいませ」とか言ったときに、発音が違う。「こうだよ」とお客さんから直されることもありました。あなたは、アメリカでしっかり英語をパーフェクトに言えますかと言いたかったのですが、そういう態度はその人の性格からきているので、いじめじゃないと理解しているけれど、嫌な気分になりました。

 

そのあと、仙台へ引っ越ししました。仙台での暮らしが一番長かったですね。
仙台で車の免許をとったのは、住んでいた場所がどこへ行くにも遠かったから。都会に行っても、子どもがいるとき、病気になったとき、すぐに連れていかなければいけないから車は必要だと思ったんです。病院が遠かったり、なにかあったときも、夫はいないことが多いので、自分が運転できないといけない。フィリピンでは父が運転してくれるので車の免許が必要とは思いませんでした。ハンドルを持つのは見たことがあるけれど、どうやって動かすかは知らなかった。

運転席 レバー

自動車教習所に行ったとき、最初にペーパーテストを受けましたが、どうかな、大丈夫かな、と思って、難しいかなと思っていました。夫は取っても取らなくても構わないと言ったけれど、自分は絶対取ろうと思っていたんです。将来はパートでもフルタイムでも仕事をしようと思っていたので、車がなかったら不便やなとも思っていた。仕事にも必要だったのです。やっぱり難しいけれど、取りたいという気持ちがあった。
たまたま同じ地域から通っていた日本人と一緒に通ったので、勇気をもらって頑張れた。学科も全部日本語ですよね。学科の授業はしっかり聞いて、あとは家で勉強しました。この漢字はどう読むか、この標識はどういう意味かなど、一人で勉強しました。一人でも、いけそうだなと思いました。
合格したときは本当に嬉しかったですね。夫は特に褒めてはくれませんでしたが。

 

▶︎File.4-6 感謝を伝えたかったのに へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。