File.3-5 決意の「結婚」だったが

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.3>リザさんの場合

決意の「結婚」だったが

 

迷っていました。私はどうやって生きていくか。
フィリピンで暮らす子どものことや無職でぶらぶらしている彼とのこと。稼いで養っていかなくてはいけない、自分も食べていかなくてはいけない。
そんな中でのある種の「決断」でした。それで、希望をつなぐことができた、と思いました。
でも、実際は幻想でした。

 

種子島の契約のとき、もう興行ビザで仕事に来るのは難しくなるという話が出ていました。エージェンシーも無くなると言われたのです。当時、日本にオーバーステイの外国人が増えて問題になったことがあり、入国が厳しく制限されるようになったからでした。
私はどうしようかと迷っていました。20代の頃にボーイフレンドとの間に生まれた息子カルロもフィリピンにいましたし、ボーイフレンドは当時私と結婚してアメリカに移住する計画を持っていました。彼はアメリカのグリーンカードを申請し、取得できるまで待っている状態だったのです。
ただ、人間の気持ちはだんだん変わるでしょう。彼はいっぱい悪い癖がありました。フィリピンだから仕方がないと思うけれど、悪い友だちがいっぱいいました。彼自身、ギャンブルに夢中になったり、プレイボーイだったり、おまけに仕事をしていませんでした。
彼とは最初に働いたホテルで知り合いました。シェフの仕事をしていましたが、仕事が続かなかったのです。結局私が稼いで彼と子どもを養ってきました。子育ては彼がしてくれていましたけどね。
彼がグリーンカードを取得できてアメリカに行くことになったとき、当時3歳になっていた息子も連れて行くと言ったんです。私はとても心配でした。でも彼は私に黙って息子を連れてアメリカに行ってしまいました。
その後、彼について悪い話が耳に入ってきました。新しい彼女ができたとか、彼女との間に子どもができたとか。私はなにより息子が心配でした。息子はどうなるのか。
結局、彼は息子をアメリカにいた私の姉夫婦に預けてしまいました。私はどうしようもありませんでした。アメリカへ息子を連れ戻しに行くこともできない。それでも私はいつか息子と一緒に暮らせるようになると信じていました。私の頭の中は貯金、貯金、貯金でいっぱい。少ない給料の中から、お金を少しずつ貯めていきました。ポジティブな思いでしたね。

貯金箱

 

ちょうどそのころです。エンターテイナーのビザ(興行の在留資格)の取得も厳しくなるという状況も重なってハートブレイクな状態の時でした。福岡で知り合った日本人男性から求婚されたんです。私は30代、彼は40代後半か50代だったかな。私のことを好きだと言ってフィリピンまで追いかけてきた人でした。
私はフィリピンにボーイフレンドがいましたが、どうしようと迷いました。安定して日本で仕事を続けるには、この男性と結婚した方がいいのではと思ったのです。私を助けるから、結婚してほしいと言われ、私は受け入れました。
種子島まで、彼が福岡から来てくれました。結婚式もなにもなく、ただ婚姻届にサインをしただけの結婚でした。
不安がまったくなかったわけではないけれど、稼いでいくためには安定して日本で生活できる基盤が必要だと、自分に言い聞かせて覚悟を決めました。

 

でも、結婚やビザ更新など書類の手続きを全部済ませた後、大きな問題がわかったのです。
彼のバックグラウンドがわからなかったので知らなかったのですが、実は住むところがなかったのです。彼は、実家の両親と同居するつもりだったようですが、周りは田んぼだらけの田舎でした。さらに、仕事もない状態でした。以前は友だちと事業をしていたようですが、うまくいかずにやめたそうです。私と結婚した時は、借金だらけでした。実家の母親から仕送りしてもらってなんとか生活していたのです。
大きなショックでした。彼はちゃんと仕事をしていると思っていました。あまり喋らない人で、付き合った期間もほとんどありませんでした。そのころには私はもう日本語で意思疎通できていましたが、よくわかっていないまま急いで結婚してしまったせいです。結局夫が無職であることもあって、私の日本人の配偶者等の資格でも在留期間はかろうじて1年延長されただけでした。
こんなはずじゃなかったのにと、とても落ち込みました。将来がとても心配になりました。当面の住むところすらないんです。日本人男性と結婚したフィリピン人の友だちが、一緒に住んでもいいよと言ってくれましたので、彼と二人で転がり込みました。お金がないので、私はアルバイトを始めました。彼に、住む家を探して欲しい、仕事をして借金を返してきれいにして欲しいと訴えましたが、彼は、はい、はい、と曖昧にうなずくだけでした。

 

博多駅連絡通路

私は悩んで、友だちに紹介された「女性エンパワーメントセンター福岡」というNGOに相談しました。
彼は私が好きではないのかなとか、結婚するのに生活をどうやっていくか考えなかったのかなどと思いましたね。耐えられない、私はフィリピンに帰ってもいいと思いました。日本の法律を何も知らなかったので、なすすべを知りませんでした。私はずっと泣いていました。
そのころ、神戸に住んでいた姉から、まだ在留期間が残っているんだったら神戸へ仕事しに来たらどう、と誘われたのです。私は、ここ、福岡にいてもどうしようもない、まるでフィリピンにいるのと同じだなと落ち込んでいました。男性との関係がうまくいかないのは日本でも同じなんだと。自分はアンラッキーだと思っていました。周りの人にも、私には男性を見る目がないと呆れられました。
そこで私は、離婚の手続きをして神戸にやってきました。

 

▶︎File.3-6 神戸へ/2度目の破綻 へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。