File.3-6 神戸へ/2度目の破綻

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.3>リザさんの場合

神戸へ

 

心が折れそうになる私の支えだったのが、息子でした。
息子にはなんとか立派に育ってほしい。そのためにそばにいられないけれどお金を稼いで彼のために送りたい。
その一念でした。

 

姉は「神戸で新しい出会いがあるかもしれないわよ」と肩を叩きました。落ち込む私を励ましてくれようとしたんだと思います。姉の家は狭かったので、私は、芦屋市の市営住宅で暮らしていた一番上の姉の娘、私にとっては姪ですが、彼女のところに住まわせてもらいました。神戸で働いている間はそこにずっといました。

私は姉の知人のミスター・ローリーさんのピアノバーでシンガーとして仕事を始めました。他にもいくつかのバーやスナックのアルバイトを掛け持ちして稼ぎました。福岡の男性との離婚後、残った在留期間の間になんとかしなければいけません。これがラストチャンスだと思いました。
日本で仕事をするのが性に合っていましたし、日本での暮らしが大好きでした。なんとか日本に残りたい、日本で頑張って仕事して貯金していきたい。

 

あるとき、仕事先の一つで、ある男性と知り合い、ボーイフレンドになりました。
男性はHさんといい、バツイチでした。Hさんから最初は、結婚はできないと言われていました。別れた奥さんとの間に娘が2人いるから、娘たちが承服しないだろうというのです。だったら私はフィリピンに帰るしかない。
私はHさんと一緒に暮らしていて在留期間の期限がギリギリまでいましたが、結局フィリピンに帰りました。すると彼はフィリピンの私のところに電話をかけてきて、籍を入れるから日本に戻ってきてほしいと懇願しました。
私の一番の目的は日本での安定したビザを取ることでした。タレントビザ(興行)ではなく確実なビザ(身分に基づくビザ)があれば日本からアメリカに行きやすいからです。私にとって最も大きな問題は息子と離れ離れになっていることなの。その息子に会うために私は日本で安定したビザを得たかったのです。そういう瀬戸際のところで彼と出会ったのは運命だと思いました。
彼はその時55歳、私は36歳でしたね、多分。彼は小さな建築会社のオーナーでした。今度は条件を厳しく考えました。会社に借金はないこと、前の奥さんがいないこと、彼の娘たちも私と話をして結婚を承諾してくれました。これだったら今度は、ビザも大丈夫かな、などといろいろ考えて同意したのです。
前の結婚とは違う、神様のお引き合わせだから、きっとうまくいくはず、と信じていました。

結婚する二人 白黒

 

2度目の破綻

 

今度こそ安定したビザで日本に暮らせる、と期待していました。日本人の夫を支え家事をきちんとこなそうと努力しました。それが自分の役割だと思っていたのです。
でもその努力の見返りは夫からの暴力でした。

 

Hさんとは7年間結婚して、別れました。そういえば前の奥さんともドメスティックバイオレンスが原因で離婚したと聞いていました。まさかと思っていましたが、私も彼から暴力を受け、家から逃げました。しばらく別居してから別れました。彼はパチンコに没入するし、女好きでした。毎夜のようにクラブに出かけて遊んでいました。社長さんだからね、派手に遊ぶのかしらね。

私は責任感を持って主婦業に専念しましたよ。家をきれいにし、料理をして、その傍らで仕事もしました。妻として勤めを果たしたと思います。
でも、彼は私を殴る、蹴る。すぐに腹を立てて、机の上のものを壊す、ガラスを割る。気に食わないことがあると、周りのものを壊していました。私が仕事から家に帰ると彼は家に鍵をかけて、私を締め出すことも度々ありました。
私はその度に警察署に行きました。彼からの暴力、嫌がらせをすべて克明にメモしました。何日、何時にどういうことをされたのかをね。家に知らない女性から電話がかかってきたこともありました。夫の子どもを妊娠した、と言ってね。離婚しようということになっても、彼は離婚届になかなかサインしてくれなくて、弁護士に相談もしました。
結局別居して3年ほどたってから、やっと離婚することができました。

 

そうそう、こんな問題もありましたね。彼と暮らしていたとき、年金手帳もくれなかったし、健康保険証も渡してくれなかったの。彼が自分でパチンコに行くときは10万円を簡単に使ってしまうのに。私は彼から最低限の生活に必要なものを買うお金しか渡されませんでした。
夫と別れて一人になったので、夜も安心して眠れます。家で怯えなくていい。好きな料理をして食べることができる。姉妹にも自由に会える。
私は自由。Free as a bird. どこへでも行けるの。
苦労ばかりです。でもね、That’s a part of my life. それが私の人生。諦めなかったのは息子とつながり続けることでした。息子がアメリカで元気で暮らしていることが私の支えでした。
私みたいなガイジンは日本で暮らすのは難しいの。日本人との間に生まれた子どもはいないので、日本人の配偶者という立場でなくなったら在留資格を失ってしまい、帰らなくてはならない。でもたまたま私は別居する直前に申請していた永住のビザが認められたので、離婚しても日本で暮らし続けることができました。

飛び立つ鳥たち

でもまだ別の問題を抱えています。フィリピンの自分の家族のことです。
私の兄が結腸癌の治療をしていますが、その費用を支援しているのです。彼がなんとか病院で治療を受けられるように私たちきょうだいで資金を応援しています。
私はいつでもポジティブなの。助け合うことがとても大切だと思っています。私たちは大家族なので助け合って暮らしています。私も日本にいる姉も仕事をしようと思えばできます。でもフィリピンではそんなに簡単ではないですね。だから、私はエクストラジョブをしてお金を作ってフィリピンの家族を支えています。
いろいろ問題にぶち当たるけれど、神様は乗り越えられる試練しか与えないのだから、きっと私は乗り越えられると信じています。

 

▶︎File.3-7 挫けない私の描く将来の夢 へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。