<サンパギータFile.3>リザさんの場合
日本社会
日本社会で馴染んだとも言えるし、未だに「ガイコクジン」を意識させられることもある。
多くは経験しなかったけれど、いじめられることもありました。
半年契約のシンガーとして働いていたとき、工場で働いていたとき、スナックで働いていたときにいじめられた経験があります。泣いたこともあった。日本人のオーナーや、同僚から。罵られたり、賃金の支払いで約束を守られなかったりもしました。言われていた額より実際には支払いが少なかったりしたんです。異議を唱えたのですが、通りませんでした。夜の仕事だけでなく日中の仕事でも、嫌がらせをされました。でもね、いじめられるのも仕事の一部だと考えていました。だって日本人だって同じだと思うの。それほどしょっちゅうってことはないわよ。
最近だと昨年のことね。2人の高齢の女性同僚が私の仕事ぶりに(清掃)について執拗に文句をつけてきたの。ずっと言われ続けたので私は辛くなって、マネージャーに私を異動させてほしいとお願いしました。そして別の建物の担当にしてもらったの。ずっと「がまん」していたのよ。でもがまんできなくなった。泣けてしょうがなかったから。大声を上げて、怒鳴られて。
異動した先の建物の担当は、高齢の女性と私の二人だけでした。私は彼女と馬が合い、友達になりました。合わない人もいるけれど、合う人もいる。それはどこの国の人間かは関係ない。
この間、アメリカから日本に帰ってきた時のPCR検査もトラブルでしたね。アメリカに行く時はPCR検査はいらなかったのだけれど、日本に帰ってくるときは必要でした。渡米時には、息子が必要な書類をすべて準備してくれたのですが、日本に帰るときが大変でした。帰国3日前までのPCR検査結果を準備する必要があったのですが、クリニックに行ってPCR検査を受けたけれど結果が届かず、ドライブスルーのPCR検査を受けて結果をメールで送ってもらう方法をとりました。
しかし、これも結果が帰国2日前になっても来ないのです。焦りました。あと1日しか余裕がない。そこでオンラインのPCR検査を受けることにしました。1時間後、結果は陰性。証明書をダウンロード、印刷して空港に向かいました。無事関西国際空港に着いてチェックインカウンターで書類を提示したら、検査方法が書かれていないので正式な書類ではないと係員。「アメリカに帰りなさい」と言われたんです。私は「失礼やな!」と腹を立てました。実はアメリカでは、鼻咽頭を拭うタイプの検査が主流でそれ以外はほぼないので証明書に記載されないのです。結局、6日間待機期間を過ごすことになったのです。職場には連絡して承諾してもらいました。
アメリカ、フィリピンから日本への帰国は本当に面倒でした。もし私が英語を話せずタガログ語だけだったら、とても対応できなかったと思います。中東や香港でメイドとして働いている多くのフィリピン人移住労働者たちは教育レベルが高くないので、どう対応しているのだろうと思います。
COVID19は移住者、移住労働者にとって本当に厳しい状況ですね。故郷や他国に住む家族に会いたいと思っても、陰性証明を取得するために安くはない検査を受けなければいけない。仕事を失ったりした人、元々低収入の人にとっては本当に難しいです。
日本は本当にコロナ対策のための制限が厳しい。水際作戦のめんどくさい手続きにうんざりもしましたが、結局これが日本なんだと思います。逆に、それは街がきれいなこととか、安心できる環境につながっていて、今じゃ私にとっては空気のように自然になっています。
将来の夢はね、レストランを経営したいと思っているの。それからフィリピンから日本に来た人たちに日本語を教える仕事もしたい。日本での経験を他の人に生かしてもらいたいから。日本の文化、言語とか伝えたい。
それから海外でのんびり過ごしたいというのもあるわね。息子がアメリカに住んでいるし。どこか違う国に行ってみたい。美しい自然、風景を見たい。だんだん私も歳をとっていくから、まだ体が丈夫なうちにね。これまで、マレーシア、香港、中国、タイ、シンガポール、アメリカ、日本。まだ7カ国しか行ってないわね。もっといろんな国を巡ってみたい。
私はいつも前向きでいられるのが特技かな。いつか気分が落ち込むこともあるかもしれないけれど、私にはほとんど無縁。どんなに困難な状況になろうと、つねに解決策が見つかるものよ。今日はトラブルでいっぱいでも、明日にはそれを乗り越える方法が見つかる。ストレスと闘う。神様がそういう心構えを与えてくれた。元気でさえいればいい。私が大学を出ていなくても、ガッツがある。どんな仕事だってできる。ホワイトカラーの人だって、どんなプロフェッショナルな仕事についている人だって前向きになれない人もいるでしょう。
私は半年の契約労働者だったとき(シンガーとして活動していたとき)、他の同僚とお互いに情報共有したり、助言しあったりしてそこでいろんな知恵を得ることができました。この世界、誰かが守ってくれたり、導いてくれたりするわけではない。その場で出会った仲間と知識や経験を共有しながら、生き延びていくしかないの。契約ごとにいろんな人とやっていかなければいけない。だから、さまざまな人とのコミュニケーションが大切で、そのためには自分がオープンな心でいる必要がある。すべての人を受け入れる。状況を受け入れる。どんなトラブルに遭うかもわからない、家族とも離れ離れ。
それでも、フィリピーノはポジティブなのよ。
幸いにも私は日本で暮らしている。日本は本当に平穏です。人々は優しいしね。
忘れられない生涯の日本人の友達といえば、やっぱり前にも言ったけれど隠岐島で出会った「はせがわれいこ」さん。彼女は私に正しい日本語を教えてくれた人。彼女は私が日本の各地に移動したときも、会いに来てくれました。フィリピンにも来てくれました。日本の各地に移動したときは、ときどきビタミン剤を送ってくれましたね。英語と日本語の翻訳もしてくれました。なにかと世話を焼いてくれました。
彼女は私のメンターです。忘れられない人。
私の日本での思い出は、長い間仕事で過ごしたバーでのことではありません。悪い思い出は男性とのことだけね。
<サンパギータFile.3> リザさんの場合 了
奈良雅美(なら・まさみ)
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。