File.4-4 教員を目指したけれど

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.4>愛さんの場合

教員を目指したけれど

 

日本ではそんなのないと思うけれど、フィリピンでは自分の望むところにいくなら、コネを使うのが普通。ツテを頼って、一筆書いてもらったり付け届けをしたり。
でも私は自分の力を試したかった。人のコネを使って採用されたくなかった。

 

大学は地元のセブ大学に進学しました。フィリピンでも最大規模といわれる大学です。
クラスの友だちの多くはメディア関係のコース、たとえば新聞記者とかアナウンサーとかDJのコースに進みたいと言っていましたが、私はそのときは何をしたいか決まっていませんでした。1年生はどの専攻もほとんど科目は一緒なので、2年生になってから専門に分かれるからそのときに決めたらいいじゃないとクラスメートからは助言されました。
ただ、私はフィリピン語にせよ英語にせよ、記事を書くのが苦手な部分があって、やっぱり新聞記者は難しいかなと諦めました。DJも機材を扱わないといけないけれど、私は機械が苦手だし、アナウンサーもそのときの状況を適切にうまくお話しすることはやっぱり苦手やなあと思っていました。だから1年生の3月、コースを決める直前に行われた振り分けの試験で、それぞれのコースの課題が出され、私も新聞記事を書いて、それは合格したのですが、仕事とするのは難しいと思いました。テレビのアナウンサーのコースでもインタビューをしたのですが、これも難しいと思いました。

大学 教室

だから2年生になって、私は結局メディアのコースを選びませんでした。
さて私はどんな仕事をしようと考えたときに、子どもが好きだったので父のように学校の先生になろうと決心しました。社会において教育は絶対なくならない仕事だと思ったのです。それで教員を目指しました。教員になるのは狭き門ですが、けっして給料はよくありませんでした。今は上がって月給3〜5万円になっていますが、私が大学卒業する頃は、教員の給料は月に1万円ぐらいでした。

 

実際、卒業しても先生になるのはかなり難しかったのです。教員免許を取得したあとに、赴任希望の地域を選んでも、どこの島に行かされるかわからない。うちの父の時代は学校がいっぱいで先生が少なかったからすぐ着任できたけれど、私の時代になると、教員免許を取得した人も増えたため、採用されるにはとても厳しい競争になりました。
それでも、後ろ盾やコネクションのある人、あるいは「袖の下」など、そういうのも含めた推薦のある人は、すぐに採用されました。なにか花や食べ物を持って、偉い人のところに行って自分を優先してもらう。
でも私はそういうのが苦手で、自分の力でいきたかったのです。実は父のきょうだいはみな学校関係に勤めていましたし、父の弟の妻は教育委員会の代表でしたので、私が叔母さんに頭を下げて推薦してもらうことも可能だったと思います。私はそれがいややった。自分の力で採用を勝ち取りたかった。結局、採用優先の順番が私の場合遅かったので、順番がなかなか回ってこなかったのです。
今、私の妹は教育委員会に所属して複数の学校の看護師をしているのですが、教員希望のいとこたちは、大学卒業後、妹に推薦書を書いてもらって、希望の学校に採用されています。だれかが教育関係の仕事をしているとそうした推薦で希望の場所に採用されるのは普通です。

 

私は、ゆっくり探したらいいやと思っていました。そんなときにメディア関係に進んだ友だちから、こんな仕事あるけどどう、と紹介されたのが、夫との出会いの場にもなったカジノの仕事でした。
カジノはホテルの中にあり、出勤日は木曜日、金曜日、土曜日、日曜日で、イベントのある水曜日も時々出勤していました。あるとき、イベントのビンゴで司会をしてみたらと言われてやったところ、お客さんから評判がよくて、毎回担当するようになりました。だから水曜日も出勤するようになりました。
カジノにはいろんな仕事がありました。私は、現金とトークン(カジノで使われるコインなどのこと)を交換するのが主な担当でした。カジノ会場で、カートを押しながら、お客さんの間を歩きながら現金とトークンを交換するのです。仕事は難しくはありませんでした。

カジノ チップ

 

望む仕事がないからといって、ただブラブラしていたら時間を無駄にすることになって、もったいないので、なんでもやってみたほうがいいと頭を切り替えました。給料は悪くなく、それでも暮らしていけるとは思っていましたが、カジノは一時的なもので一生の仕事ではないと見切っていました。カジノが潰れたら、あるいはホテルが潰れたら、私は仕事がなくなってしまうと頭にありました。
カジノの仕事は夜だったので、日中には時間がありました。それで母の勤めていた保育園に手伝いに行くようになったのです。保育関係の仕事だったら勉強になると、母に勧められて。日中の3時間、保育園で仕事をしていました。

 

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<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。