File.1-8 私の仕事〜再び社会とつながる3

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.1> けいちゃんの場合

私の仕事〜再び社会とつながる(前回のつづき)

 

●通訳の仕事への転機

10年勤めた弁当作りの会社を辞めたのは、偶然のタイミングが重なったことからです。
私はパートタイム従業員でずっと同じ部署でしたが、正社員の人たちは頻繁に異動がありました。
あるとき私のいる部署に主任としてやってきた正社員が、自分の担当業務を私に押し付けるようになりました。
それまでの私の担当業務とはまったく関係がなく、不条理だと感じるようになり、仕事の面白さが段々と薄れてきました。

 

ちょうどそのころ、フィリピン人女性のグループ「マサヤンタハナン」に出合い、日本語教室に参加し始めました。
同グループが出店していた「多文化フェスティバル」で、芦屋市教育委員会の関係者から、日本語がわからず授業についていけない外国人児童を授業中にサポートする「多文化サポーター」に登録しないかと声をかけられました。

 

私は「サポーターとして活動したことがないから」と断りましたが、「子育て経験があるから大丈夫。担当する児童は小学校低学年なので、自宅で子どもに教えるような感じで側についていてくれたらよいからぜひやってほしい」と懇願されました。
私にとって、これまでの仕事とはまったく違う世界です。
話を聞いていくうちに、ワクワクしてきて「やってみたい」と興味が湧いてきました。

 

さらに同じ年に市民活動団体「NGO神戸外国人救援ネット」のスタッフから「フィリピン人の通訳者が足りないから、事務所にきてもらえないか」と声をかけられました。
私は初めて通訳や翻訳の仕事をするようになりました。
翻訳の経験はまったくなかったのですが、周りから「実務をこなしていくうちに慣れるから」と助言され、短い文章から取り組み始めました。

同時期に、兵庫県教育委員会から「多文化サポーター」の試験の案内が届きました。
受験して合格したので、県にもサポーターとして登録をしました。

また、神戸市の「神戸国際協力交流センター」(KICC)にも、通訳者として週1日勤務することになりました。

「マサヤンタハナン」でボランティアに手伝ってもらいながら日本語を学び、日本語能力検定試験のN3(5段階のレベルで上から3番目に当たる)に合格した段階で、弁当作りの会社を退職し、本格的に通訳・翻訳の仕事に従事しようと決心したのです。

 

▶︎File.1-9 私の仕事〜再び社会とつながる4 へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。