File.2-6 もう振り回されたくない

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.2>マユミさんの場合

もう振り回されたくない

 

いまでもね、カタールに赴任していたらどんな人生だったろう、と思うときがあります。
思い出すとちょっと残念ですね。
でも運命がころころと転がって、長く日本で暮らすことになりました。
想像もしていなかった、別れと出会いの2つをここで経験しました。

 

私はアメリカから帰国後、日本人の父を持つ、ジョセフィーヌ姉さんの下の息子も引き取って育てていましたが、その息子が6歳になったとき、母親である姉が彼を日本へ呼び寄せることになり、私が甥っ子を連れて行くことになりました。
私は帰国したらすぐに、フィリピン軍の海外派遣スタッフとしてカタールに行くことになっていました。マイクも当然同行するものと思っていて、軍から許可を得て連れて行く予定でした。次のキャリアの話に舞い上がっていた私に「カタールは臭いから行きたくない」と彼が言い出しました。てっきりオッケーしてくれると思ったのに、とても驚きました。
私は、とても悩みました。マネージャーというポジションは簡単にはなれないので、とてもエキサイティングだと思っていたから。ところが彼は行かないという。彼は中東の人々に偏見があったのかもしれない。でも、そのときの私は彼と一緒にいたいという思いが強かったので、結局カタール行きは諦めてしまいました。
代わりに彼は日本に一緒に行きたい、だからビザをとってほしいと私に頼んだのです。私は、日本にいる姉に頼んで、マイクと結婚前の挨拶に行くためという理由をつくって彼とともに短期滞在のビザを取得しました。

 

日本にきて、あちこち遊びに行きました。とても楽しかったです。
さあ帰国しようというとき、彼がもっと日本にいたいと言い出したんです。Oh, my God.私は驚きました。
今みたいに規制が厳しい時代ではなかったので、滞在費用を稼ごうと私も仕事を始めました。
最初は知り合いに紹介してもらったエジプト人の経営するクリーニング店でした。その経営者の妻が私を気に入って、私にメイドの仕事をしてくれないかと頼むんです。でもメイドの仕事はしたことがないし、個人の家に入るとトラブルに巻き込まれそうで私は嫌だった。フィリピンに帰国するからといって、そこをやめました。
じゃあ、マイクのお母さんの知り合いがいる東京へ行こうということになりました。私は日本語が少し読めるので、なんとか二人で東京まで出てくることができました。

東京

迎えてくれたのは、東京都足立区に住んでいたマイクの母の友だちだったフィリピン人の老夫婦でした。夫婦は私たちに優しくしてくれたけれど、マイクがわがままだったので彼らはほとほと困っていました。私はマイクに「ここは自分の家じゃないんだよ、周りに合わせなさい」と言ったけれど聞き入れませんでした。せっかく作って出してくれた料理を嫌いだと言って食べなかったりしてね。私も彼に手を焼きました。
その後、私たち老夫婦の娘さんの紹介で、あるチェーンのレストランのメニューをラミネートする仕事に二人で就きました。でもマイクは、残業はあるし立ちっぱなしだからしんどいというのです。私は呆れて、仕事に楽なものはないと彼を叱りました。
結局、そこの仕事をやめて、それ以上老夫婦のお世話になるのも申し訳なかったので、今度は私のヘレン姉さんの息子の友だちを頼って茨城県に行きました。茨城では工場で働きました。ペプシの関連会社でボトルの蓋のチェックをするライン作業でした。3ヶ月ぐらいかな。

 

マイクは私にも、私や彼の家族にも優しいので大好きでした。だけど頼りないんです。
思ったよりずっと日本での仕事が大変だとわかって「やっぱり神戸に帰ろう」と彼が言いました。何か問題に直面すると、ふらふらとしてしまう。嫌なことから逃げるというのは彼の性格です。マイクとの間に子どもができたらどうしよう、彼とは家族としてはやっていけないなと、ぼんやりと思い始めてましたね。
結局私たちは神戸に戻りました。彼は解体の仕事を始め、私は別の仕事を探しました。姉は自分の経営していたお店に来たお客さんから、会社で従業員を探しているという話を聞いて、私を紹介してくれました。そこは長田区にある家族経営の小さな靴工場でした。靴のパーツのバネを作って箱詰めをする作業で、私は一生懸命仕事しましたね。私はフィリピンの家族にお金を送れるし、ジョセフィーヌ姉さんや甥っ子と一緒にいられるし嬉しかった。
でも、しばらくするとマイクは解体の仕事もしんどいと言って、結局ひとりで帰国してしまいました。
ところが、帰国したマイクから「会いたいからクリスマスに帰ってきて」とせがまれました。
私の給料は月末支払いだからクリスマスは帰れないと言うと、彼は「別れたいんだろ。じゃあさよならだ」と怒りました。
私は頭にきた。もういい、もう限界。
彼の都合で、東京、茨城、神戸と引っ張り回され、私は疲れてしまったのに、なんて彼はわがままなんだ。
長い間、マイクとは別れられないと思っていたけれど、きっぱり断ち切った。そんな自分に驚きました。
こんな頼りない人はいなくったって、私は生きていけると思いました。
こんなわがままな人のところに戻る必要はない。私は決意しました。

 

22年付き合った彼だったけれど結婚しませんでしたね。
本能かな。この人は私より弱い、と感じていました。マザコンじゃないけれど、私に甘えるんです。
私はしんどくなりました。時間が経ったら、彼も大人になるかなと思ったけれどそうじゃなかったんです。
だから別れました。

別れる

 

▶︎File.2-7 「愛している」との出会い へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。