File.3-3 憧れの日本

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.3>リザさんの場合

憧れの日本

 

憧れの日本で大好きな歌の仕事ができる! 私はとても興奮していました。
日本の空港に降り立つと、すぐにここから移動すると言われ、広がる大都会のビル群を想像していた私。
ところが電車とフェリーを乗り継ぎ、数時間かけて連れて行かれた先は、うらさびしい海辺の街でした。

「ここはどこですか?」

「おきのしま、だよ」

 

日本に行くことが決まったとき、とても嬉しかった。だけど、一緒にオーディションを受けたバンドのメンバーにはビザが下りなかったのです。彼らと一緒に行けると思ったのに悲しかった。日本はビザ発給が厳しいからですね。
仕方なく私はソロシンガーになりました。当時はフィリピンから日本へどんどんシンガーが入ってきていた時代で、東京エリアに入るのは難しくなっていました。けれど、地方での仕事ならビザが出やすいという事情がありました。

 

日本に降り立ってすぐに私が連れて行かれたのは隠岐島(島根県)でした。ほんとに何もない田舎町でした。
しかも、仕事場になった店はとても小さかった。伴奏は生演奏ではなくて、カラオケでした。お客さんは、私がよく歌っていた新しい英語の曲は全然知りませんでした。
プロモーターは私に、お客さんの好みに合わせて、古い日本の曲を歌うように言いました。私は日本語の歌を勉強し、歌詞を必死に覚えました。ほとんどがデュエットの曲でした。お客さんが好んだからです。私はカラオケを伴奏に歌いました。
来日前は大きなステージで歌えると期待していました。日本に来たことがなかったから、まさかこんなものだとは想像してなかったのです。
でも現実は違っていました。東京へ行くつもりだったのに、田舎のとても小さなバーでカラオケをバックに歌っている。時にはお客さんと一緒にデュエット。最初はとてもがっかりしました。でも私はこれを仕事だと割り切って、勉強しました。
あとからもう一人フィリピン人シンガーが来る予定でしたが、初めは私の他にフィリピン人はいませんでした。一人ぼっちの生活。店のママさんとも英語が通じませんでした。どうやって人とコミュニケーションを取ったらいいのか困りました。
そこで私は日本語の辞書、CDに教材を買ってきて自分で勉強しました。

隠岐島

隠岐島がどんな街かって? 田舎ね、とても田舎。アクセスするには船しかないので、簡単に逃げ出せないですね。お店に来るお客さんは中高年の男性客、漁師とか、多くが海で仕事をする人でした。ネクタイを締めたスーツ姿でやってくる人はほとんどいなかった。彼らは漁の後、お店にやって来て、酒を飲み、歌った。
でも、仕事環境にもだんだん慣れてきて、私は気にしなくなった。お客さんはみんな優しかったしね。
こんな話してもいいのかしら。バッ・エクスペリエンス(Bad experience)ね。
でも私は幸運だった、なぜならママが同じ建物に住んでいたから。1階は仕事場のスナックで、2階はママの自宅で、3階は私たちの部屋でした。
ある時、その店の店長——といってもママの息子だけど、私が夜一人で寝ていると、彼が私の部屋に忍び込んできたの。下着一枚で。
びっくりして、言葉に表せないくらい怖かった。部屋の中を逃げ惑って、大声でママを呼びました。そしたら、彼は諦めたのか出て行きました。
そのときママは私の声に気づかなかったのだけれど、翌日も私はママにそのできごとについて告げなかった。今度そんなことをしたらママに言いつけようと思っていたけれど、2度目はなかったから。
ただ一人で過ごしている間は本当に怖かった。怖かったけれど、逃げ出したいと思うわけではなかった。
そのうち、もう一人のフィリピン人シンガーがやって来て一緒に住むようになってほっとしました。
お客さんは優しかったし、ママもいい人でした。私はママになんでも話せたし、所属していたプロダクションのマネジャーも理解のある人でした。
私たちの仕事の契約単位は通常3ヶ月で1回だけ更新が可能、最長でも6ヶ月という契約でした。私は契約期間の6ヶ月終了まで頑張って仕事しました。

 

私は隠岐島でとても親切な人に出会いました。「リエコ・ハセガワ」さん。薬局の経営者でした。彼女は大学を卒業していて、英語が話せたので私の言うことをわかってくれました。
私たちは友だちになりました。彼女は私にたくさんの日本語を教えました。正しい日本語(標準語)をね。紙に英語と日本語を書いて、コピーを私にくれました。彼女は私の先生になって、熱心に日本語を教えてくれました。日本に来て初めての経験でした。なんて親切な人なんだろうと思いましたね。
私も熱心に日本語を学びました。私は彼女のおかげで、日本をより身近に感じて日本での暮らしが好きになり始めました。言葉が通じなかったら、私の言いたいことを相手に伝えられないし、私の知りたいことを人に尋ねられない。悩みごとがあっても言葉にできないでしょう。
言葉は本当に大事ですね。

ノート

 

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<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。