File.4-7 群馬から兵庫へ

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.4>愛さんの場合

群馬から兵庫へ

 

「どこのスナックで働いているの?」
必ず聞かれる質問。「私は英語の先生をしています」というと、驚かれます。
こんなこと、東京のラーメン屋さんで働いていたときは、聞かれなかったのに。

 

群馬県の太田市から兵庫県の三田市にきたのは、夫の父の急死がきっかけでした。三田市で一人暮らしをしていた義父がクモ膜下出血で倒れ、間もなく亡くなったのです。三田市の実家にはだれも住む人がいなくなってしまいました。実家に帰ったら、家賃もかからないのでお金を貯めることができると言われて帰ってきました。
その頃は夫の両親は離婚し、義父は別の女性と結婚していましたが、その女性と私の夫は折り合いが悪く交流がありませんでした。葬儀のときに、義父の連れ合いの女性が「自分は保険金だけもらったら、家とか他のものはなにもいらない」と言ったので、家をどうするか、だれが相続するかという問題を夫の兄弟で話し合ったのです。上の兄が「妻のところに住んでいるので家はいらない」と言ったので、私たちがもらうことになりました。
数ヶ月後に三田市に引っ越ししてきました。車で神戸に来たときは都会だなと思いましたが、三田に入ると太田市に似ていて違和感はありませんでした。

 

最初は家の管理もあって1年ほど仕事はしませんでした。翌年には、近所の人から紹介されたゴルフ場のポーターの仕事をしながら、土日に英語の教室を始めました。新しく自分で教室を立ち上げたのです。
ポーターはキャディのサポートの仕事で、キャディが出る前にカートの準備をするのが役割です。英語教室は習い事なので、夕方からしか生徒さんは来ません。だから朝8時から午後2、3時までの空いた時間がもったいないなと思って、近所の人にお好み焼きを食べながら「なんか仕事ない?」って訊いたんです。すると
「あるよ、ゴルフ場のポーター」
「ポーターってなに?」
「キャディみたいな、でもキャディじゃない」
「えー何それ?」
「行ってみたらわかる」

並んだゴルフクラブ

キャディのサポートに慣れてきた後に、キャディの仕事ができるんちゃうとゴルフ場のマスターに言われて、やってみることになりました。最初は他の人にもついてきてもらって、2、3回キャディとして仕事しました。でもやっぱりポーターが足りないと言われたので1ヶ月だけキャディしてポーターに戻りました。
4年間、ポーターの仕事をしました。

 

ゴルフ場では、偉そうな態度を取るお客さんもいれば、優しいお客さんもいました。いろんなお客さんがいて、それに合わせるのが自分の仕事なので「むかつく!」と言いながら、なんとかやっていました。
私はお客さんに必ず「どこの国?」って聞かれる。そして「あんた、夜どこのスナックに働いてるの?」「どこのクラブで働いてるの?」も必ず聞かれます。私は英語の先生をしています、と答えると、ええ、と驚かれます。「旦那さんいるの?」「離婚してないの?」「電話番号教えて」「名刺ない?」って言われます。ほとんどなんちゃいますか、そんなふうにフィリピンの女の人を見たら言う人が。軽い冗談か、本気なのか知りませんが。東京のラーメン屋さんで働いていたときは、どこの国出身かとは聞かれましたが、住んでるところや電話番号を聞かれたことはありませんでした。

パブのグラス

フィリピン人や外国人と見られると、この子は引っ掛けられるとイメージしているのかもしれません。もう慣れてしまった。最初から、おじさんたちから何度も何度も聞かれるので、次第に慣れてしまったんです。だいたい、そういうイメージをもたれているのが、なかなか消えないですね。日本人の世界の見方なんでしょう。フィリピン人女性は、スナックかパブか、そういう仕事をしているとしか見えないのでしょう。私も日本語が話せる訳ではなかったので、うまく反論もできなかった。

 

あとはこれから、奈良先生のこの本『サンパギータ』がでたら、いろんな人に読んでもらって、イメージが変わったらいいですね。

 

▶︎File.4-8 子育て へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。