File.1-6 私の仕事〜再び社会とつながる1

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

サンパギータ 日本のフィリピン女性たち(奈良雅美)

 

<サンパギータFile.1> けいちゃんの場合

私の仕事〜再び社会とつながる

 

日本は自分の居場所ではない、自分の国ではない。どこかで私はそう思っていました。
だから、できるだけ目立たないように、生きてきました。ときには差別されたと感じることもありました。

私が日本で社会とつながっていくきっかけとなったのは、仕事でした。

 

●日本で初めての仕事に就く

子どもが二人とも幼稚園に通い始め、昼間に一人の時間ができるようになったころ、弁当作りの会社で働いていたフィリピン人の友だちが職場に用事があって行くというので、私も一緒について行きました。
友だちに「一緒に来て」と言われ、軽い気持ちで事務所までついていったところ、社員さんが私に話しかけてこられました。

「仕事をしてみませんか、今日面接できますよ」

突然のことに「え?」とびっくりしていると、友だちが「やってみたら」と背中を押してくれました。

 

来日してから私は子育てと日本の生活に慣れるので精一杯で、仕事は一切していませんでした。
私は勤務希望の時間帯に、ごく短時間、午前9時から午後2時、週に2日のみ勤務可能として提出しました。
正直なところ、こんなに短い時間しか働けないのでは採用されないだろうと思っていました。
ところが後日会社から電話があり、「いつから勤務できますか」と訊かれたのです。
家庭以外に自分自身の活動の場を持つ道へとつながったのは、この仕事がきっかけだったと思います。

 

実は夫には、あの場で面接を受けていたことを伝えていませんでした。
夫に相談すると、「働かなくてもいいと思うけれど、それくらいの短い時間ならいいよ」と承諾してくれ、仕事を始めることにしました。

 

久しぶりの仕事、これがとても楽しいのです。
配属されたのは、お弁当の惣菜調理を準備する部署でした。
使われる肉や漬け込みの材料がどのくらいの分量必要かを計算する仕事です。
もともとこの仕事を担当していたのは日系ブラジル人だったのですが、ブラジルに帰国したため、その後を私が担当することになりました。

 

同じ部署にフィリピン人は私一人。
他は日本人と日系ブラジル人しかいませんでした。
同僚のフィリピン人たちは、調理などの流れ作業(ライン作業)に多く配属されていて、私だけが違う仕事をしていました。
冷凍庫の中をチェックし、今日はどの材料が何パック使われていて翌日は何パック必要か等を把握し、管理します。
また、前夜にどれくらいの分量を冷凍庫から出し、どのタイミングで解凍を始めないといけないかということも計算します。

 

仕事に夢中になっていき、次第に勤務時間が伸びて、とうとう週5日勤務になり、夫の扶養から外れてしまいました。
夫は予想外だったのでしょう、「短時間の約束だったのに」と言いましたが、結局その会社で10年ほど勤めました。

 

働くことはとても楽しかったです。
自分で稼ぐことによって、いろんな意味で余裕ができた気がします。
夫は必要なものを言えば買ってくれますが、私は人には頼れない性格で、遠慮してしまい、欲しいものがあっても夫になかなか言えません。
たとえば、フィリピンの家族から金銭的な相談をされても、夫には言わなかったです。
夫が自分から、「クリスマスや誰かの誕生日には何かを送ってあげて」と言ってお金を渡してくれるので、私から言い出さなくても配慮してくれると思って、あえて自分からは言いませんでした。
自分で稼ぐようになってからは、自分でフィリピンの家族への贈り物を賄う余裕ができました。

 

ただそのうち、夫からも私の収入をあてにされるようになり、自分の給料はほとんど家計に入れることになりました。
夫はいつのまにか携帯電話や電話料金、インターネット料金などを私の名義にしていましたが、私は異議を唱えませんでした。
家族だから協力すべきだし、私も稼いでいるのでそれでいいと思っています。

 

▶︎File.1-7 私の仕事〜再び社会とつながる2 へ続く


<話を聞いてまとめた人>奈良雅美プロフィール写真
奈良雅美(なら・まさみ)
特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクト代表理事。関西学院大学非常勤講師。ときどきジャズシンガー。
小学生のころから「女の子/男の子らしさ」の社会的規範に違和感があり、先生や周りの大人に反発してきた。10代半ばのころ、男女雇用機会均等法が成立するなど、女性の人権問題について社会的に議論されるようになっていたが、自身としてはフェミニズムやジェンダー問題については敢えて顔を背けていた。高校時代に国際協力に関心をもち国際関係論の勉強を始め、神戸大学大学院で、環境、文化、人権の問題に取り組む中で、再びジェンダーについて考えるようになった。
 大学院修了後、2004年より特定非営利活動法人アジア女性自立プロジェクトの活動に参加。途上国の女性の就業支援、日本国内の外国人女性支援などに取り組む中で、日本に住むフィリピン女性たちに出会う。社会一般の彼女たちに対する一様なイメージと違い、日々の生活の中で悩んだり喜んだりと、それぞれ多様な「ライフ」を生きていると感じ、彼女たちの語りを聴き、残したいと思うようになる。移住女性や途上国の女性の人権の問題について、より多くの人に知って欲しいと考え、現在、ジェンダー問題、外国人や女性の人権などをテーマに全国で講演も行っている。